夜明けの少し前に 第五十四話 “お迎えに上がりました” 頭の中に響く、男とも女ともつかぬ透明な声。 まどろむ―――いや、眠りについている筈の意識は心地よい温もりの中でふわふわと彷徨っている。 “船を、ご用意いたしております……―――” 船。 そうか、船を……船? 「―――!」 がばりと起き上がったエイジスは、乱れる黒髪を手で避けながら裸胸のままカーテンを勢いよく開けた。 深い紺と闇色の二つの色の世界は、とある不思議な光によって暗くも美しいグラデーションを作り出していた。 「……まさか」 緊張の余りそう呟きながら港を見れば―――そこには。 「マリナ、起きろ。出発だ」 「え、んーん……―――えぇ!?」 次に勢いよく目を覚ましたのはマリナだ。 はっとして急いで掛けていた布で胸を隠すと、エイジスの所在を確かめる。 彼は彼女が困惑している間にベッドからひらりと降りると、散らばる服をかき集め迅速にそれを身につけていく。 「え、エイジス、ど、どーいう……!?」 窓の外を見て、時を確かめようとしたマリナは外のある異変に気づいたらしい。 「すまない、迎えが来ているらしい」 「迎え?」 マリナがぱちくりとするのを視界の端に確かめながら、エイジスは自分の準備を終え、マリナの服をまとめてベッドの方に放りやった。 間を置いて急いでそれを身につけるマリナ。こういう時は問い詰めるより行動を起こしてくれるのがありがたい。 コンコン。 「起きている」 聞こえてきたノックにエイジスは即答する。 「後の二人も起こしてある―――宿の入り口に来てくれ」 声は、年を経て落ち着いた男性の声―――キーニアスのものだ。 彼らは人と異なる種族ゆえ、勘も良いのだろう。 エイジスは荷物を肩に掛けると、マリナの準備を待った。 「ふあ……」 と、大きなあくびをしたのはこげ茶の髪の少年だった。 指で擦った後に開かれたのは、まだとろんとしている明るい緑の瞳。 まだ辺りは闇だった。 繁華街などに行けばまだ人も灯りも尽きないだろうが、ここは港の前の宿屋だ。 泊り客も潮騒を聞きながらの眠りを貪っているはずだ。 深い遠い紺の空には無数の大小の星たちが輝き、更に海のほうを見れば、ほぼ満月に近い白銀の月が海面に太い一条の光を映していた。 「やっぱり眠い……」 「だらしないわねえ」 驚いて目を覚ましたものの、また眠気を覚え始めたリードを見てマリナは苦笑する。 シルアもどこかぼうっとしていて、歩みを進めながらも視線が時折定まらない。 「直に目も覚めるだろう」 エイジスも苦い微笑を浮かべながら言った。 だが、この眠たげな少年少女を除く三人は彼の放つ緊張を感じ取っていた。 彼らは宿を出て港へと出た。 その間もない距離を終えると、やがて六人は目を見開く。 そこにあったのは、一隻の船。 その船は、光っていた。 まずその不思議な光―――眩しくはない、だが強烈に澄んだ、それでいて淡い銀色―――にまず目を惹かれ、次に船本体を確かめる。 光のせいかとも思えたが、どうやら船自体も白い素材で作られているようだ。 木材を白く塗ったのか、それとも木自体が白いのか……それは遠目からでは判然としなかった。 光は柔らかく海と港を照らし、まるでもう一つの月があるかのように錯覚させた。 「船が、光ってる……」 マリナが呆然と呟く。 足を止めた一同の中、一人が数歩先を進み出た。 歩みを止め、フードを外し、その美貌をさらす。 淡い紫水晶のような瞳は、夜の不思議な“迎え”の船を凝視した。 “―――月を孕むひと……” 呟くような、あの透明な声が響く。 「あ……」 シルアが声を上げた。 「聞こえたよな、今」 リードはそれに応える。 振り返れば、キーニアスとエルリアもどこか苦い顔をしながら船を見つめている。 その中で、マリナだけが不思議そうに首を傾げていた。 「ねえ、何が聞こえたの?」 「え……あれ?」 今度はリードがきょとんとした。 「今さ、月を……はらむひと、って」 「……聞こえないわ」 マリナはそれを聞いて、哀しそうな顔をした。 彼女が感じるのは他でもない、疎外感……そして、予感の的中。 “どうぞ、船に” 「あ、また―――」 リードが今度は控えめに声を上げた。 「エイジス……」 マリナが呟いた。 見ると、フードを取ったエイジスは導かれるように船へと再び歩き出していた。 「行こう」 キーニアスが短く言い、エルリアと共に彼の後を追った。 リードとシルアも躊躇いがちに、歩き出した。 一番後ろに居るマリナを見ようと振り返ることは、出来なかった。 その光る船は、港の一番端に停泊していた。 穏やかな潮騒が響く中、エイジスを先頭にした六人は船の前に立った。 船が一瞬強く光ったかと思うと、やがて音も無く現れた光る白の階段から一人の人物が降りてくる。 「―――……」 一同は、その容姿に瞠目した。 エイジス以上に長い、銀を帯びる白の流れるような繊細な髪。 顔立ちは男とも女ともつかない―――だが天上もかくやという様な気品と透明さ、その美しさはこの世に存在する生物の比にはならない。 いや、今ここにいる一人の青年はそれに当てはまらないかもしれないが。 瞳は紫がかった薄い青だった。 長身でほっそりとした身体はどこまでも儚げであった。 『……お迎えに、上がりました』 薄い唇から肉声と一画を隔てた響きの声を発した後、その人物はたおやかに腰を屈めた。 さらさらと流れる髪の動きは余りに滑らかで覚えず目で追ってしまう。 誰もが陶然とする美しさを前に、一人の青年が尋ねた。 「どこへ、行くのだ」 無理やり落ち着かせた、人の声では良い響きだが硬い声だ。 その問いに、よく見ると薄い白の布を何重にも纏ったその人物はゆっくりと顔を上げた。 『我が主の眠る島……ひとの言葉で、ソア=ルーンと申しましょう』 月の逢瀬。 古い言葉の意味が、今やっと解り始めた。 「…………」 『時は満ちました。月に触れることを許された者を、導くよう言い渡されております』 白の人物は、するすると歩き出すと、キーニアスの元へと向かった。 『竜の長、キーニアス=ノヴィル=ドレイク』 「―――月の導きのままに」 布の下から差し出され船へと導く、なよやかな白い腕、そして手。 初老のくすんで見える銀髪の男は厳粛に礼をすると、その脇をすり抜け船の階段へと向かった。 次に向かったのはエルリア。 『エルフの旧き御方、エルディレイリア=シル=エラ=ソフィアリス』 「―――我らは、月と共に」 鮮やかな紅い髪が、腰を屈めると同時に前に滑り落ちる。 そして彼女も船へと向かった。 そしてリードとシルア。 『まだ若い、ひとの子……月に似た巫女、森を愛でる長を継ぐ者……』 白の人物はそう言った後に、白い手で水平に弧を描いて船へと乗るように促す。 シルアはやや間を置いてから歩き出し、リードも意を決したように前を見て足を動かした。 白の人物は、船へと戻る。 その眼差しの先は、一人の青年。 青年―――エイジスは、その視線を感じつつ振り返った。 今にも泣き出しそうで、それでも必死で目を逸らさぬようにと堪えている人がいた。 青い瞳は揺れ、それはそのまま彼の心を揺さぶる。 エイジスは再び船の方を見た。 白の人物は彼の目をまっすぐに見た後、ふいと海を照らす月に顔を向けた。 その横顔は哀しく思えた―――いや、哀しいのは自分だ。 エイジスはもう一度、身体ごと振り返ってそのまま歩き出した。 「―――……っ」 つんのめるように抱きついてきたマリナを、強く抱き返す。 そして両手を彼女の頬に当て、一つだけ、彼女のふっくらとした唇に自分の唇を落とした。 「やっぱり、無理なのね」 「やはり、起こさなければ良かった―――」 「いいの、わかってたの……」 マリナは少しだけ身を離すとこしこしと両目の涙を急いで拭った。 まるで、彼に拭われることを防ぐかのように。 「マリナ、私は―――」 エイジスは必死に何かを言おうとした。だが。 「駄目、何も言わないで」 その言葉に彼は口の動きを止めた。 「期待……してしまうから」 そんなこと、在り得る筈が無いのだから――― とん、と軽く彼の胸を突いたのは誰でもない、マリナだ。 「だから、早く……」 「…………」 最後の方は言葉にならず、俯いたまま何も言えなくなった彼女。 それでも、顔を上げて、ありったけの愛を込めて……笑った。 もう触れることは叶わない、あなたに。 だからもう、何も言わないで。 何も、残さないで――― 彼は、それでも囁いた。 彼女の耳元に、ほんの一瞬、二つの言葉を。 そして振り切るように踵を返し、船へと歩いていった。 白の階段を登り、白の船へと乗り込む。 皆が沈黙する中、船はゆっくりと動き出した。 そして、意外にも早いのではないかという速度で淡い光を放ちながら海の上を進んだ。 月の見える方角に、向かって。 愛している。どうか幸せに…… やっと港の方を振り返ったが、既に港は遥か遠くにあった。 あの愛しい青は、見えなかった。 |