夜明けの少し前に 第五十三話 港町クワイアの天辺にあった陽は傾きかけ、海へと向かう大通りも昼の威勢の良い掛け声は聞こえなくなっていた。 キーニアス率いる五人が着いたのは丁度その頃で、どことなくもの寂しさも感じさせる空気の中、一番港に近い宿に部屋を取った。 「―――綺麗……セン=ルムの霧が晴れると、こんなに……」 緋色の陽がきらきらとたゆたう、北方の海―――セン=ルムを眺めて青髪の女性はうっとりとしながら呟いた。 髪も瞳も青の彼女は、華やかな顔立ちでまさに夏の海のような印象を受ける。 隣に立つ黒髪の男は、それを眩しそうに見つめた後に彼女と同じく海に意識をやった。 ―――正確には、その遥か向こうに在る筈の場所へ。 このクワイアの町でも、セン=ルム―――“霧の海”が晴れたことによる騒ぎはあった。 天変地異だと騒ぐ船乗りもいれば、今が機会だと船を出す豪気な者もいる。 兎にも角にも、あの鬱蒼とした海から一変した今の海は穏やかという言葉が一番相応しかった。 彼ら二人はその人気の無い港の、やや端の方で並んで立ちながら悪くすれば見ることも叶わなかったその光景を眺めている。 海風に、襟足より僅かに長い青の髪と腰ほどまである黒髪がさらさらとなびいた。 「美しいな……月を加護するに相応しい」 「……ええ」 「すまない」 「いいの、気にしてないわ」 月、という単語に表情を沈ませる彼女に彼は詫びた。 彼女は困ったように笑顔を見せ、また海に顔を向ける。 「……マリナ」 そう呼ばれ彼女がふと彼を見ると、気付いた時には。 「……ん……」 重なった唇から、苦しげではないくぐもった声が聞こえる。 顔を少し離して、お互いの瞳を覗き込んだ。 途端に溢れるのは、溢れる愛しさにも似た涙。 「……マリナ……」 「……っ、ごめんなさい」 自分でも少し驚きながら焦って指で拭おうとするのを止められ、代わりに彼女の肩を抱いている彼の唇が優しげに、丁寧にそれを掬っていく。 されるがまま、その度にじんわりとした感覚が眼の奥に走り、その雫は尽きることなくあふれ出していた。 今にも不治の病で他界しそうな恋人を看ているのとは違うだろう。 今でも彼は普通に歩き、話し、笑っている。 口付けも、昔と変わらない。 髪の色は変わってしまったが、そんなことはどうでも良かった。 彼が彼であるのなら、何でも良かった。 それを求めて自分は今まで旅をしていた。 だがそのことが余計に今を辛くさせようとは気付かなかった――― 「……そろそろ冷える。宿に帰ろうか」 「ええ……」 そう言って自然に手を取る彼から伝わってくる、微かな体温。 彼の手も冷えていたが、それはやがて温まるだろう。 彼は、生きているのだから。 一匹の野良猫が、ふとエイジスの視界に入った。 海に背を向けた時、倉庫の脇に無造作に積まれている木箱の上で、ちょこんと座っていた。 どこもかしこも真っ黒な猫で、その目はすみれ色―――その割には妙にぎらぎらと光るものがある。 長く細い尻尾を気まぐれに揺らすと、軽やかにそう高さも無い木箱の山から降り立ち、こちらに一瞥もくれずに間もなく倉庫の間の闇へと消えていった。 まるで溶けていくように…… 「……どうしたの?」 「ああ……猫が」 「猫?」 マリナが彼の様子を訝しく思ったらしい。 エイジスが上の空でそう答えると、マリナは彼の視線の先を見る。 が、そこには連なる倉庫と脇に詰まれた木箱たちしか見えない。 「居ないわ」 「あの隙間に入ってしまった」 「そう……」 マリナはそこから眼を逸らし、また前を向く。 エイジスもそうしたが、一度だけ、そこを振り返った。 やはり、猫は居なかった。 「『霧は晴れ、北の海は間もなく光を迎える』―――」 水平線に沈み行く、燃えるような夕陽はその残滓を強く細い光条として港町に投げかけていた。 それは、屋根の上で不自然なほどにごく自然な様子で座り海を眺めている人物にも等しく注いでいた。 茶の髪は橙を帯びたが、赤の瞳は輝きを増すのみだった。 「このこと、なのでしょうかね」 絶えることの無い微笑はやや深くなり、言葉が続く。 「それとも、やはり……―――」 短い凪も終わり、やがて刺すような冷たさを孕んできた海風が町に、そして彼に向かう。 彼の茶の髪がなびいたが、彼自身は微塵も寒さや冷たさを感じていないようだった。 音も無く、強い緋色は海へと飲み込まれた。 辺りはまだ明るいが、既に反対側―――西の空は夜を始めていた。 彼と彼の同属の最も好む、闇の時が始まる。 「早く……見せてくださいね」 心底楽しそうになるはずの笑顔は、哀しみと虚しさを混ぜた微笑となるのみだった。 |