夜明けの少し前に

第五十五話





 ざあ……



 耳に快い潮騒が響く。
 数十、数百年だろうか―――とにかく永い時を越えて晴れた海の霧は悉く消え、暗いながらも周りの景色が見渡せた。
 とはいっても、やはり海だけあって周りには何も無いのだが。

 シルアは黒の髪を潮風に靡かせ、紺の瞳であるのかわからない夜空と海の境界線を見つめていた。
 セン=ルムは北の海。本来なら凍てつくように寒いはずなのだが、不思議とそんなことはなかった。船の主の魔力だろうか。

 ふとシルアが俯いたので、リードは心配そうにそれを隣で見た。
 二人は並んで甲板の端の舳先に近いところに立っていた。
 そうして言葉をかわすことも無くしばらくそこに居たのだ。

「……また、会える……よな」

 小声で、ぽつりと呟く。
 それが耳に届いたのか、ひっく、というすすり泣く声が聞こえた。
 少年の手が、震える少女の手をしっかと握った。

 自分達はいい。
 だけど、もうもしかしたら永遠に会うことの叶わぬ人との別れ。
 あの人の見届けることも許されなかった悲しみが、ただ二人の胸に残った。









 船は、本当に白い木で造られていた。
 白い木は確かに大陸にも存在するが、それとはまた異なる白さなのだ。
 それがよく磨かれ、塗料で滑らかになっている。
 舳先から手すりの細部まで細緻な彫りが施され、かなり手の込んだ芸術作品とも言える。

 キーニアスは、そのおそらく魔力で造られたであろう不思議な白い船を見渡していた。
 船に乗っているせいか、寒さは感じない。代わりに暑くも無く、実に過ごしやすい温度に保たれているようだった。

 例の白い服をまとった人物は、表情も無くただ月を仰ぐのみだ。
 エルリアは手すりに手を置き海を眺めている。
 最近キーニアスは彼女の扱いに正直戸惑いを覚えている―――それだけではないが、余り進んで声を掛けたいとは思わなかった。

「…………」

 甲板の後方―――たった今別れを告げてきた場所に一番近いところに、エイジスがいた。
 キーニアスからは彼の後姿しか見えないが、彼はしばらく海の向こうを見ていたかと思うと……俯いた。

 容姿や普段の態度からしても彼は年の割には落ち着きがあるように思えるが、キーニアスには彼の本質のようなものは何となく理解していた。
 とりわけ人と関わることの少なかった彼が、限りなく愛した人と別れを告げることをどれだけ辛く思うだろうか……ましてや、彼の運命はもう定められている。
 望みは持ちたい。だが、手段や知識は持っていない。

 この痛いくらいの静寂―――潮騒と、風の音が支配する空間。
 キーニアスは密かに嘆息し、月を見上げた。



























 白の人物は、月を仰ぐことをやめた。
 キーニアスがそれに気付いて、そのままその視線の先を追った。

「―――……!」

 やや遠い前方に見えるのは、月に照らされる何か。
 大きくは無い。やがて近づいてくるそれは、全体の輪郭を現してきた。

 島だ。

 リードもそれを指差し、シルアが顔を上げてそれを見ている。
 エルリアもその声を聞いて島の存在に気付いたようだ。
 エイジスはやや遅れて、ゆっくりと船内のほうに―――島へと、身体と視線を向けた。






















































 島の小さな砂浜に、船はゆっくりと近づいた。
 また音も無く現れる階段を降りた六人は、改めてその島の入り口を眺めた。

 どうやら船の木は、この島の木に通じているらしい―――独特の細い、白い幹を持った薄き緑の柔らかい葉を茂らせる木が密生していた。
 それから砂浜に向かうと木はなくなるが、代わりにその白い森の中にも映えているらしい、苔よりは大きな草花が群生しつつ辺りに薄い紫の小さな花を咲かせている。
 それが月明かりに浮かび上がる様は、現世を離れた、まるで神話やおとぎ話のような世界観を持っている。
 およそ見慣れぬ雰囲気や光景は六人の足を砂浜に留めさせた。



『参りましょう、皆様。主の下へ、ご案内申し上げます』

 最後に降りたその白の人物は感情無くそう言うと、森へと向かって歩き出した。
 薄布が砂浜や草の上を引きずるのも躊躇わず森の中へと入っていく。最も、人外の者ならば服など汚れても余り問題にはならないのかもしれない。

 キーニアスがやっと足を動かすと、他の五人も歩き出す。
 エイジスは、森の上に懸かる月を見上げた後、皆の後に続いた。




































 さわさわと木々を縫い木の葉を揺らす風が、シルアはどことなく気にかかった。
 踏みしめる足元の小さな草や花、時折手をつく白い幹―――触れるたびに、どこか落ち着かないのだ。
 自分の身体にある何かが、妙に騒ぐのだ。

 エイジスも同じような感覚を抱いていた。
 だが、その大きさはシルアの比にならない。
 まるで草花や木々の思念が送り込まれるように胸がざわつくのだ。
 不快なのかよくわからない感覚に、エイジスは更に気を滅入らせた。



 やがて視界は開けた。
 そこだけぽっかりと森に穴を空けたように木々が生えていない。
 代わりに先ほどの小さな薄紫の花がびっしりと繁っている。

 それらが囲んでいるのは、小さな泉だった。
 見ただけで解る、澄んだ水。おまけに冷えていそうだ。
 そういえば、この島も余り寒さを感じない―――と、シルアは今更になって気付いた。

 白の人物はす、と泉に近寄る。
 そして片膝を立て屈むと、その白い手の指先から、静かな水面に差し入れていった。
 緩やかな波紋が広がり、肘のやや手前までいれたかと思うとそこで止まった。
 代わりに瞳が閉じられる。



 しばし経って、腕は泉から出された。
 その人物は立ち上がり、泉をしばらく見下ろした。



「……!」

 六人は驚く。

 泉がひとりでに揺れたかと思うと、中から――― 一人の、子供が現れたのだ。
 おそらく、月の精か何か、だろうか。
 彼らの想像するところとは違うものが現れ、意表を突かれている間にもその子供は泉から立ったまま、すうと浮かび上がるように出てくる。



『こんばんは。お兄さんたち』

 その子供は美しくも愛らしかった。
 子供特有の中性的な顔立ちだ。瞳は深い紫、髪は銀糸のような滑らかさを輝きに持つ。
 無邪気に微笑んで首を傾げる仕草は、どんなに邪な精神を持った者の刃でも一瞬鈍らせる程のものだった。
 服は銀色に薄光る、薄い布で出来た簡素なものだ。

『ぼくはね、ルナ。月の分身というか……うん。精霊みたいなものだと思って』

 泉から出てきた、ルナと名乗る精霊はそのまま草花の上に歩いてきた。

『お兄さんたちを案内してきたのは、ぼくの友達のケイ』

 ルナはそのままケイというらしい人物の足元に近づく。
 そして首を傾げる。それも愛くるしい。

『うーん、この人もね、精霊なのかなぁ……えっとね、いつもは人間の姿じゃないんだよ』

 仕草や言葉遣いが子供そのものだ。
 これから成す事が大きいだけに六人は不安を覚えたが、他に口を出すようなことも無いのでその紹介を見守る。

『ね、ケイ』

『はい』

 そう応えたケイは、初めて皆の前で笑顔を見せた。
 うっとりするような微笑だ。だがそれはじきに見られなくなる。

 ケイは瞳を閉じたかと思うと、ふわりと髪を舞い上がらせた。
 あの船が発していたような淡い光を纏い始めると、やがて彼自身がそれに包まれ白い塊となり、変形し始めた。

 すう、と光が消えると、そこには一頭の銀に光る白馬が居た。
 長い睫毛でぱちぱちと瞬くと、その小さな主の頬に顔を寄せた。
 くすぐったそうに笑うルナ。ケイは顔を離し、六人のそれぞれの顔を見た。

『私は月に仕える精霊の一人です。ケイとお呼び下さい』

 馬でありながらも、言葉はしっかりと伝わってくる。
 それを確かめさせたかのようにルナはまた話し出した。



『それじゃあ……そこの、一番後ろのお兄さん』



「…………」

 エイジスは僅かに身じろぎしたが、黙っている。

『あと、黒い髪のお姉ちゃんと、茶色の髪のお兄ちゃん』

 シルアとリードは顔を見合わせ、もう一度ルナの言葉を待った。
 ルナは彼らの緊張した面持ちに構わず、話を続ける。

『ね、こっちに来て?』

 無邪気に首を傾げ、彼らを見た。






『月の光、返してもらわなくちゃ。ね?』