夜明けの少し前に

第五十二話





「……キーニアス」

 幾分、通常よりは控えめな呼び声に彼は振り返る。
 その聴き慣れた声の主はもちろん、エルリアのものだった。



 彼らは馬車での少々窮屈で荒い旅路を終え、シーニという小さな町に着いた。
 丁度昼時らしく、小さな町でもやはり食堂というものは客の出入りが尽きることが無かった。
 特に選ぶことも無く入った店で席を取ることが出来た五人は注文を取り、しばらく料理の到着を待つこととなった。

 そこで耳に入るのは、周りの客の喧騒―――



―――聞いたか。あの明るい森で、妖魔が暴れているんだとよ。

―――この前に荷馬車が襲われたらしいじゃないか。

―――俺たち冒険者は金が入っていいけどなぁ、これじゃあキリが無いって……

―――おう、そういや、セン=ルムの霧も晴れたんだってな! はっは!

―――なーにつまんねえこと言ってやがるんだよ、この馬鹿!

―――んなもん前からだろ、諦めろって……



「…………」

 エルフの良く利く耳に入ってくる、冒険者達の他愛ない会話。
 だがそれは顕著にこの世界の安定が崩れてきていることを示していた。

「エルリア、どうした」

「いや……」

 キーニアスが彼女の表情を見て声を掛けるが、エルリアは今更話す気にもならず、言葉を濁した。

 気が滅入るといえば、先ほどからの―――エイジスの、その“友人”とやらへの対しての行動もそうだった。
 やたら世話に甲斐甲斐しいというのか、機会があるごとに彼女、マリナ=アンフィネのことを気にかけている。
 先ほども椅子をわざわざ彼女の為に引いていたのだ。
 ……今までの余り愛想の良い性格とは思えなかったエイジスを目の当たりにしていた所為か、気味が悪いことこの上ない。



 だが、それでも。
 エルリアはそれに深い悲しみと悔しさを覚える。

 エイジスという男がこれからどうなるのか、彼女は知っているのか。
 エイジスという男が何を背負っているのか、彼女は知っているのか。

 それでも彼女は、ついていくと決心したのだろう―――



 あの芯の入った強い青の瞳が、今では不安げなものに思い出されて仕方が無い。

 ああ、きっと彼女はとても強いひとなのだろう。
 だから、彼の総てを受け入れることが出来たのだろう。



 料理の載った皿がテーブルに置かれる音に、エルリアははっと意識を現実へと戻した。

 腹減ったぁ、というリードのどこか不自然な―――場を少しでも和ませようとしたのだろう―――少年らしい物言い。
 浮かない表情だったシルアがそれを聞いて困ったように、くすくすと笑う。
 マリナは相変わらずねぇ、と懐かしそうに微笑む。
 ……エイジスは、それを見て、微かに口元を綻ばせた……

 キーニアスはいつも通りの表情だった。
 だがそれに救いは感じられなかった。
 目の前にある、食欲がないから選んだ、湯気がのぼる澄んだ野菜のスープ。
 触れて冷たさの無い木の大きめのスプーンを手に取り、その混じりけの無い液体は浸されたそれを僅かに歪ませた。


















「キーニアス……どうして、彼らは……」

 そしてその奇妙ともつかぬ昼食を終えた道中、エルリアは横に並ぶキーニアスに問うた。
 少し後ろでは、元来明るい性格のマリナがシルアと話に何とか華を咲かせ、たまに話を降られるリードとエイジスは迷惑そうながらもそれに応えている。

 エルリアは言った。

「どうして、あんなに笑っていられる?」

「……どうして、とは?」

 キーニアスは至極落ち着いた様子と口調で彼女を見守った。

「懐かしい友人に会えたのだ。……笑顔とは、嬉しい時に出るものだろう?」

「……そうだとしても」

 煮え切らないエルリアの態度に、キーニアスは嘆息して空を見上げた。

「お前も、故郷で懐かしい顔を見たいと思うだろう?」

「……それは……」

「ひとは、変わらぬものに何より安堵するのだ」

 永い時を生きる彼らは、変わらぬものなど信じない。

「彼女の笑顔は、彼の笑顔なのだ」

「…………」

 エルリアは唇を噛みしめ―――



「シルア、大丈夫か? 顔色……」

 リードの心配そうな声音が耳に届いた。

「ううん、大丈夫……」

「でもシルアちゃん、無理は良くないわ。病み上がりなんでしょう?」

「そうだ、これからはあまり休む暇も無い」

 振り返れば、こころなしか顔色の悪いシルアが三人の言葉に応えている。
 特にリードは足を止めてシルアの顔を覗き込んだ。

「無理するなよ。休ませて貰おう」

「で、でも、急がなきゃ……」

「では、休もうか」

 シルアはそれにはっとする。リードも振り返った。

「大丈夫だ、馬車が意外に早かった。この辺りなら丁度良いだろう、少し休んだ方がいい」

 キーニアスはいつの間にか振り返って彼らにそう言った。
 シルアはしばらく困って迷うようにしていたが、やがて頭を下げた。

「ありがとうございます、キーニアスさん」

「無理は禁物だ」

「そうだ、シルア! あっちに川があるんだ、行ってみよう」

「うん……」

 そうと決まればと言わんばかりにリードはシルアの手を掴んで、歩き出した。

 エルリアがふと周りを見渡せば、そこはなだらかな丘のようだった。
 それを囲むように、小川が曲線を描いて静かにきらきらと流れている。
 この辺りは気候も涼しいのか、ぽつりぽつりとある木々や色彩の華やかな草花はさながら絵画のように鮮やかに眩しい光景を創り出していた。
 北方で山に囲まれ、余り土地の肥沃ではないテードルでは数少ない、穏やかで静かな場所である。

「リードくん、随分と積極的になったのね」

「あれでは、普通の女は煙たがるな」

「そんなこと言わないの」

 感心するマリナにエイジスが意地の悪いことを言い、それをさも楽しそうに諌める。
 彼らはまるで、そう……幸せそうな、“恋人”たち。

 二人はやがてその辺りの草の上に座り込み、マリナが周りの何かを指差しエイジスがそれに応えるというやりとりを繰り返していた。

































「うわ、冷て!」

 リードが早速と手を突っ込んだ川の水は予想外に冷たかった。
 慌てて手を引き、落ち着いた後に両手でお椀を作り、そっと水を掬った。
 こくこくとそれを口に運んで飲むと、それは澄んだ味がした。

「シルア、少し飲んでみろよ」

「美味しい?」

「うん、すごい冷たいけどな」

 彼に言われてシルアも川のほとりにしゃがみこみ、そっと掬って口に運ぶ。
 冷たさに少々驚いていたが、やがて手の中の水を飲み干すと、ふうと息を吐いた。

「うん、すごい美味しい」

「……だろ?」

 リードはそれを聞いて、同じく息をつくと後ろに両手をやって座り込む。
 そのまま仰ぐ空は、微かにフォルンの空を想わせた。
 ふと音がしたかと思うと、すぐ隣にシルアが座っていた。

 何となく心地が良くて、しばらくは目の前の小川とその緑の光景をぼうっと眺めていた。
 いつの間にか現れた黄色い小さな蝶が、小川から少し突き出た石の上に止まる。
 やがてどこからか同じ色の蝶が同じくそこの上に止まった。
 羽を休めているのか、水を飲んでいるのか、寄り添ってぱたぱたと羽を動かしていた。

 一言も交わさぬ時がしばし続いた後。



「……気分は?」

「ありがとう、平気よ。心配しないで」

 最近癖になったかのように問うリードに、シルアは困ったような笑みで応えた。
 それでも笑えるようになっただけでマシか、とリードも微かに微笑み返してふと気付く。



(……近……)

 大きな紺の瞳、白い肌、桃の小さな唇。
 一つ一つが愛らしく整ったその美少女の顔が、目の前にある。

 睫毛の長さに今更、どきりとしてしまう。
 恥ずかしいのに、眼が逸らせない。

 そんなに長い間旅をしていないのに、何だか……綺麗に、なった気がする。

「?」

 小川の向こうを見ていたシルアがその視線に気付き、彼のほうを向いた。
 と同時に、彼女もどこか緊張したようにそのまま顔を動かさない。

(柔らかそう……だな)

 リードは無意識に、片手の指を彼女の頬に、そっと触れさせた。
 やはり、柔らかい。そして、暖かい。
 自然と手のひらでそれを覆い、その脇にある唇に目が移る。

 微かに開いている薄桃の唇は、艶があって、頬よりも弾力がありそうだ―――



 さく、さく。



「!!!」

 聞こえた草を踏む足音にリードは飛び退るように立ち上がった。
 シルアもびっくりしていると、後ろから声が掛かった。



「―――そろそろ、出発したいそうだ」

 それは、意地の悪そうな響きを持っていた―――エイジスのものだ。



「わ、わり、えと……先戻ってる!!」

 そう言い残してリードは耳まで真っ赤にして駆けていってしまった。



「…………」

「…………」

 シルアもしばし頬を染めていたが、やがて立ち上がった。
 そして、目の前に居る青年を見た。

「どうした?」

 人気の無いのを見越してか、今の彼はフードを外しその美貌をさらしている。
 稀有な美しさを備える“幻の皇子”は、一人の少女の目の前で特に気取ることも無く立っている。

「―――マリナさんは……」

「マリナは?」

 シルアは気付かない素振りに苛立ちを覚えた。
 だが、それも極々自分勝手な憐みに近い感情にかき消された。

「知っているんですか」

「知っている。それを承知で彼女は今、此処に居る」

 思いがけず、真っ直ぐな答えが返ってきた。
 シルアは一瞬たじろぎ、俯くことを必死に堪えながら彼の目を見た。

「もう、本当に……?」

 だが、その問いは抽象的なものになってしまった。
 そして、彼はその意を汲み取った。

「それが、一番確実だ」

「…………」

「無論、私はあがくつもりではいる―――だが、諦める覚悟も最初からある」

「……そんな」

「巻き込んですまないと思っている。感謝している」

「―――……」

―――そんな言葉で、終わらせて欲しくなかった。

 過ごした期間も、彼を心配する気持ちも、彼の愛しいひとには負けている。
 それでも、ここにある悔しさや哀しさはきっと、似ている。



 耐え切れずに、シルアは彼の横をすり抜け元の場所へと早足で戻っていった。
 エイジスがその後姿を見送っていることにも気付かず、また振り向きもしなかった。