夜明けの少し前に

第四十九話





 どこかけだるく浅い、まどろむような眠りから目を覚ます。
 視界に入るのは古ぼけた板張りの天井―――それは決して年季の入った旧き良き宿のものではなく、単なる安宿のような粗末さだった。

 そう、安宿だ。
 エイジスは寝返りを打とうとしてふと横を見る。

 鮮やかな青が、そこにあった。

「―――……」

 そのまま視線で辿る、白い肌、布の下で上下する胸や腹、僅かに覗く白い脚。
 こころなしか陽には焼けただろうか―――それでも、その感触は別れる前と変わりが無い。
 それに救いを覚えたのかはわからないが、兎にも角にも自分は……それに触れたくて仕方が無かった。

 彼女の耳に、最後に呟いた言葉は響いていたのだろうか。



 どうするんだ、自分は。

 もう、自分が愛する人を捨てられるほど潔い性格をしていないことが解ってしまった。
 こんなにも永く生きておいて、自分はちっとも成長していなかった。

 だがそれでも自分は旅立つだろう。

 今更引き返すことも出来ない、それは考えてはいけない。
 考えなければいけないのは彼女のこと。
 自分を追ってきた上に、知らされる事実は悉く酷いものだ。
 泣くのか。叫ぶのか。狂うのか……ああ、何を自惚れているんだ。
 彼女は強い。狂うなんてことはあってほしくもない。
 でも、少なくとも哀しませるのは自分という存在だ。



「ん……」

 軽く身じろぎをした後、碧い瞳が同じく天井を捉えた。
 そして、まだ覚め切らない瞳のまま隣にいる人物を見る。

「……エイジス」

「ん?」

 名を呼ばれたので、青年も彼女を見る。
 微笑を浮かべて名前を呼んだ。

「起きたのか、マリナ」

「…………」

 ぼんやりとしたままの彼女は、ずっと彼から目を離さない。
 彼は不思議に思って尋ねた。

「……?」

「違うの」

「え?」

「違うの……」

 そう繰り返したかと思うと、瞳が歪み、潤みだす。
 堪えきれないといったように瞳をきつく閉じた時には、エイジスが既に覆いかぶさるようにマリナの身体を抱きしめていた。
 お互いに触れる温もりが、酷く心許ない幻に思えて仕方が無い―――

「ごめん、なさい……」

「……マリナ?」

 先ほどもうわごとのように繰り返していた、謝罪の言葉。
 訝しげに思っていたものの、中々聞けずにいたのだが。

「どうしてそんなに……謝る?」

「…………」

「久しぶりに会えたのに謝られてばかりというのは苦しい」

 それは本音だ。
 何も言わずに身を寄せてくる彼女を見下ろしながら苦笑交じりにそう告げた。
 青の瞳はしばらく別の方を見ていたが、やがて自分を見上げてきた。

「……重荷になるって、解ってたのに……私―――」

 伏せがちだった瞳をまた閉じた時、新たに溢れる涙がこめかみへと伝う様に心を痛めた。

 違う。自分が悪いのだ。
 決意も決心も、結局は自分の中だけのもので彼女には欠片も伝えていなかった。
 無論彼女は気付いていたと思った。
 だから、傍らに眠る彼女を残して旅立った。

 純白とはいえないシーツに広がる彼の黒髪。
 今はもう短い、彼女の青髪。
 見慣れない色彩と光景は、お互いが時を経たことを認識させているようだった。

「マリナは悪くない……悪いのは私だ」

 顔を寄せて、額をつける。
 彼女が目を開いた。視線が絡み、やがてお互いの瞳の奥を見る。

「違うの、解ってたの、本当に。でも……でも」

「いいんだ」

 額を一旦離し、そのままそこに唇を落とす。
 そして頬、鼻先、……鮮やかな桃の、唇。
 触れるだけのささやかで優しい口付けは一際心に染み入る。



「―――寂しかったの……すごく」

 彼女は震える声で、今の距離で聞こえる大きさで言う。
 子供のような、単純な理由。
 だから、自分も子供のように……単純に、純粋に喜びを覚える。



 ああ、夢の続きはきっとこうなのかもしれない。
 お前はずっと、夜毎に私に訴えていたのだ―――寂しくてたまらない、と。



















































 こ、こん。



 突如響いたノックに二人は慌てて姿勢を正した。
 リードはそわそわと空いている片手で髪をわしわしとかき回し、シルアは俯いて両の手を布の上で重ねる。

 入ってきたのは、紅い髪の女性と銀髪の初老の男性―――エルリアとキーニアスだ。
 リードとシルアはどことなく落ち着かなかったが、入ってきた二人は特には気に留めない。

「話しているところすまないが……エイジスはどこにいるか知っているか?」

「……わかりません」

 キーニアスの問いにリードは答えた。

「エイジスはお前を探しに行ったはずなのだが……?」

「……あー……」

 リードは躊躇いを見せ、ちらりとまだ少し涙目であるシルアと見交わす。
 エルリアとキーニアスはマリナ=アンフィネという女性を知らない。
 そしてリードも、状況に出くわしたはいいが実のところはよくわかっていないのだ。

「何か言いにくいことでも?」

 エルリアが尋ねる。尚更困り果てるリード。

「…………」

 キーニアスは追求を辞さない様子の彼女とそれを渋っている彼の様子を交互に見た後、間を置いてこう切り出した。



「―――そろそろ腹が空いただろう。下に行かないか」

「は」

「キーニアス……!」

 リードが間抜けな声を発し、エルリアは憤りかけて何とか止まる。
 だがキーニアスはそれを聞き流し、リードを目で促す。
 リードは何となく逆らえず、少し救われたことに感謝しながら椅子から立ち上がった。

「エルリア、お前はどうする」

「……いらぬ」

 エルリアはふいと顔を背け、不機嫌な、そしてほんの少し寂しげな表情でぽつりとそう返した。
 そうしてキーニアスはリードを連れて部屋を出て行った。



「あの、エルリアさん……」

 おずおずとした声にエルリアはそちらを向く。
 びく、としたシルアの表情に気付き、慌てて自分の表情を意識した。

「私がちゃんと話します……少し、長くなってしまうかもしれません」

 気を取り直したようにシルアははっきりとした声で言った。
















































「つまり、エイジスは昔の知人を見て逃げ出した、と?」

「……多分」

 軽い食事を終え、キーニアスは再び頼んだ熱い薬茶をすすりながらリードの話を聞いた。
 リードの食事は話しながらのせいかあまり進んでいない。

 止まない雨の音を耳に入れながらキーニアスは密かに息をつく。
 敢えて知人、と言ったが……実際のところは別に見当がついている。
 何故なら、只の知人でその場から逃げ出すとは余り考えられないからだ。

 エルリアを上の部屋に置いて来たのはなるべく落ち着いて話したかったからだ。
 最近の彼女はやはり感情的になりやすい……あの魔族が出現してからは特に。



「もう夕方か……」

 その言葉にリードもつられて窓の外を見る。
 暗くてよくわからないが、彼がそういうのならそうなのだろう。
 リードはまた食事に戻った。
 状況は違えど腹はいつでも空くのだ。健康な証であるが。

「そうだな」

 リードはキーニアスの不意な言葉にぎょっとする。

「彼は人間なのだな」

「―――……」

 聞いていない振りをしたかったがそれも上手くできず、食事に没頭することにした。






























「……我らに会う前にお前たちが知りあった友人と、エイジスが知り合いだということか」

「はい……きっと」

「…………」

 下にいる誰かと同じようなことを言いながらエルリアはふう、と不機嫌そうに息を吐く。
 シルアはどことなく居た堪れないような表情をしていたが、気を取り直して再び口を開く。

「でも、マリナさんは悪い人じゃ……!」

「わかっている」

「え?」

「いや……とにかく、その言葉を信じよう。エイジスもだ」

「…………」

 そう、信じるしか無い。
 でも、それを裏切られたとしても心のどこかは安堵するかもしれない。
 よく知る二人が、悲劇を迎えずにすむ……



「ソア=ルーンには月の精がいる」

「……月の……?」

 エルリアが唐突に話し出し、シルアはきょとんとして聞く。

「私も詳しいことは知らぬ。とにかく、月の現し身のような存在だ」

「それは……一体」

するとエルリアは、ふう、と息をつく。

「話が通じぬ相手ではあるまい」

「……?……」

 首を傾げる黒髪の少女に、紅髪のエルフは少し安堵を覚える。



 何も持たない希望など、与えてどうする。