夜明けの少し前に

第四十八話





「キーニアス、エイジスはどうした?」



 雨に驚き急いでこの食堂に駆け込んできた者達も、各々の注文を済ませ徐々に落ち着きを取り戻していた。
 不意に降ってきた女性の声は、殆ど身体を覆う外套、そしてフードを被った、どこか小奇麗ながらも胡散臭い感を拭えない身なりの人物のものだった。

「エルリアか」

 昔からのなじみといっても良いだろう―――とにかく、同じ空間に居ても息苦しさは無い相手。
 銀髪の初老の男、キーニアスは冷めてしまった薬茶に視線を落としたまま口を開く。

「……逃げ出しは、しないだろう」

「探さないのか」

 凛とした強い声。
 エルリアは視線をこちらによこさないキーニアスに苛立ちを覚えながら向かいの席に座る。

「……リードとシルアはどうしている」

「部屋で話している。それより、いいのか」

 フードの下から覗く桃の唇が動く。
 焦りや不安を隠せずにいる様子がキーニアスの苦笑を誘った。

「リードが、帰ってきたということは―――私がどうこうしてもどうなるかわからないだろう」

「しかし、……もし―――」

「私とて、気は進まないのだ」

 笑みを消したキーニアスは、エルリアの迷う言葉を打ち消すように言った。

 仮に、“彼”がごく普通に生を受け、この世に現れたとしたら。
 それが、“彼”にとって幸せになるかはどうかはわからない。
 だが、それでも―――



 それが、世界の為だというのなら。



「こんな、何もかも背負い込むような……死など」

 エルリアは震える声で言う。

「月の光を返すために―――仮の命の源を返すために―――百年以上も待ち続けた、だと……馬鹿馬鹿しい」

「エルリア……」

「どうして、生を望む者が死を選ぶのだ。どうして……どうして」

 その先は、キーニアスにもわかった。……わかって、しまった。

 最後に残った息子が、記憶を取り戻して尚―――死を司るかのようなあの男の元へ駆けていく。
 あの男が殺したのではない。あの男が呼んだのではない。
 わかっている。わかっていない。どっち、どっちなんだ―――

「駄目だ。雨が……あの、少年が……もう」

「リードは命を落とすようなことは……無い」

「見ているだけで駄目なのだ、キーニアス……怖いのだ」

「なら、護るしかあるまい。我らが」

「―――護る……」

 エルリアは虚ろに呟いた。
 やがて品書きを持った少女がテーブルに近づいていく。

 雨は、止む気配を見せずにサンキトルの町に降り続けていた。



















































「……嘘だろ」

 リードは呆然と呟いた。

 食事もそこそこに、シルアは話した。
 シゼーヌの図書館辺りからぼんやりと気付いていたことを、エルリアに確かめたこと。
 そして、エルリアは―――否定をしなかったこと。

「じゃあ、俺たちは……」

「……その為に、ソア=ルーンに行くの」

「そんなのありかよ!」

 リードは憤って勢いよく椅子から立ち上がる。
 シルアはびく、と震えたが次には哀しげに瞳を伏せた。

「じゃあ、エイジスは自分の命を捨てにいくのかよ! 俺たちはその手伝いなのか!?」

「……っ」

「今だって―――マリナさん、と」

「私だって!」

 リードの言葉を遮ってシルアも叫んだ。

「私、だって……その為に行きたいわけじゃないもの」

 彼女の声が震えていることに気付き、リードも自身を落ち着かせるように椅子に座った。
 そして素直に頭を下げる。

「……ごめん」

「…………」

 シルアはしばらく俯いていたが、やがて窓を見た。
 雨がガラスを叩く様を見つめ、また部屋の中に視線を戻す。

「……まだ、本人には聞いてないの」

「そりゃ、聞けないよ」

「本当に、駄目なのかな……もう……」

「…………」

 シルアがまた俯き、手元の布をきゅ、と握り締める。
 リードは、そんな彼女にかける言葉が出てこない自分に苛立ちながら膝に手を置いていた。



「……俺、ちゃんと出来るかな」

「え……?」

 間を置いて、リードはどこか弱い調子でそう零した。

「誰かが死ぬとか……そういうの抜きで。何で、俺なんだろう。俺、魔力とか……何にも、持ってない」

「……そんなの、出来なくたって」

「でも、凄く大切なことなんだろ? 竜とか……エルフが動いてるんだ」

「そう、だけど……」

「妖魔が増えてるってことは、それだけ世界が危なくなってるってことじゃないか……」

 月が力を失った世界。
 それは普段何の魔力も使わずにいる生物たちにとってはいつもと変わりの無い暮らしにしか感じられないだろう。
 だが、変化は徐々に目に見えてきている。
 夜という名の闇は妖魔の安住の時間とされ、月が出ようが出まいが狂気のままに動物を、人を襲う。
 妨げる力が無くなった今、煮えきらずにいた闇の力は勢力を増していく―――。

「妖魔が増え続けたら、俺たちの故郷だって危ない」

「…………」

「特に俺の……フォルンは、魔術が使えない人が殆どなんだ」

 リードはそう言った後、唇をかみ締めた。
 かくいう彼もそうであり、父も、従兄弟も、友人達も―――殆どとは言ったが、例え一部の者達が使えたとしても妖魔の脅威を持て余すのは時間の問題だ。

 シルアは、閉じていた口を重々しく開けた。

「……だから……エイジスさんは、行くのね」

 虚ろに、半ば諦めたように言う。

「……それは」

 一人の命と、世界の平和を。月に生かされたあの人は、その時から。

「……っ」

 しょうがない―――だなんて、言えない。
 だがリードは心のどこかでそう思っていることがわかっている。

 何て自分は冷めているんだろうと思った……でも、戦いにおいてはそれが正しいと教えられた。

 動けるならば、動け。
 護るものを、護り通せ。

 ……大小の犠牲は常に出るのである。






 ぽた。

 シーツに落ちる、一滴。
 リードがはっと顔を上げる。彼女は俯いている―――震えながら。
 彼が何か言おうとして口を開き掛けると、シルアはごしごしと片手で涙を拭った。

「―――ごめん、もう悩んでいる暇なんて……」

 拭って手を離したかと思うと、また滲んできたのか今度は顎を伝う光るものが見えた。
 薄暗い窓のどんよりとした光の中、少年と少女はただ黙り込む。

 どうしようも、出来ずに。