夜明けの少し前に

第五十話





 夜遅く、宿に戻ってきた一つの影があった。






「王子、お帰りなさいませ」



 敵意も悪意も殺意も、好意も善意も心意も感じられぬ響き。

 とても穏やかな喋りではあるが、その裏にあるものはわからない―――虚無か、混沌か。



「どうした、酔狂魔族」

「……随分と手厳しい」

「俺は用がない。失せろ」

 マントのフードを目深に被る人物は美声に似合いすぎる辛辣な言葉を声の主に送りつけた。

 雨足は弱まり、辺りは闇色の靄がかかっているようであった。
 街灯も頼りなげにその靄と、その向こうの建物たちと―――もう一つの影を浮かび上がらせた。

 ゆらめく街灯が二つの赤を一瞬煌かせた。

「お久しぶりです……皆さんはお忘れでいたようですが」

 やがて靄の向こうから輪郭をはっきりとさせてきた影は色を思い出したように現して来る。
 直毛の腰ほどまでの茶髪にすらりとした体躯の、年齢不詳の男性。
 “闇の微笑”と称えられるその人―――サレディ=ヴィスタと呼ばれる魔族だ。

「……サンカで何をした?」

「何のことでしょう?」

 一方王子と呼ばれた青年―――エイジスはろくに返事もせずにそう切り出した。
 いつもと違う黒ずくめの服装で、サレディ=ヴィスタは微笑んで返した。

「あの小さなお化けのことなら、それは私のせいでも―――魔族のせいでもない」

「…………」

「八つ当たりはいけませんね、王子。責任転嫁など以ての外です」

「……何を、しにきた」

 諭すような物言いにいらつきながらエイジスはそう問うた。
 やはりどこかで見ていたのだ。知っているのだ、こいつは―――






「セン=ルムの霧は晴れました」






 この上なく明瞭な口調の、魔族。
 だがエイジスはその言葉に一瞬、聞き違えようとした。






「旅立ちの時は、来ました」






 どくん、という嫌な鼓動と共にその言葉を無理やり受け入れようとする―――









「真なる旅立ちにして、旅の目的……意義である場所、ソア=ルーンは開かれました」



















































 この場所は、夜こそ真の居場所である。



 およそ見慣れぬ白い幹を持つ優雅な細い木々が密生し、その下には柔らかな質感の薄い小さな葉と、可憐な薄紫の花を持つ植物が差し込む月明かりを求めて咲き誇る。
 常に霧がかるひんやりとした大気―――鳥も、獣も、虫も、花も、木も、この場所の神聖な主のもとひっそりと息づいていた。

 だが、それも霧が晴れてからはそうしてはいられなくなった。

 前よりもはっきりと差し込む日光と月光。
 花々は我先にと固い花びらを解けさせ、木々は生気を幾分増したように繁りだす。
 “主”が告げたことを信じ、彼らは歓迎の為にいよいよ盛り出すのだった。






 白い森の奥の更に奥―――その“時”にならなければおよそ入れぬような場所に、小さな泉があった。

 一目見ただけでひんやりとして澄んでいることがわかる水をたたえるそこに、人のものではない足が、ゆっくりと入り込んできた。



 それは、蹄だった。
 濃い灰色の上にうっすらと銀に光るそれをその上の白い毛並みで覆われた足首あたりまで泉に浸す。
 その足は震えもせず、やがてもう一方の前足も差し入れたのだった。

 そして―――す、と再び静まりかけた水面に、白い鼻先が近づく。
 ほんの少し触れさせて離した後、今度は躊躇いなくそこから沈めていった。
 ややせわしく動く唇が澄んだ水の中で触れたのは、小さな額。



“ご主人”

 呼びかける。僕として、友として、そのひとの心に。



 呼びかけた後、泉から出た。
 特有の長い睫毛を何度かしばたいていると、泉の中で変化が起こる。

 極々弱く、ぱぁ、と泉全体が輝いた。
 そして出てきたのは、小さな頭。
 まるで急に泉が浅くなったように、出てきた場所にぺたりと座り込むと眼を擦る。



『……なあに、ケイ。もうそんな時間……?』

 幼い声、幼い言葉。

 肩の辺りで切りそろえられた極々細い銀糸のような髪。陶器以上に白く透けるような肌。
 瞳は紫で、常人ならば妖しいその色は幼い純粋さの下に最上の宝石以上に輝きを持っていた。
 目鼻立ちはそれこそ人ならぬ美しさを持っているがその印象は―――まだ年端もゆかぬ中性的な子供であった。

 その紫の瞳が寝惚けながら映すのは、一匹の馬。
 その子供にとっては“馬”は僕であり、友であり、相棒であり、良き理解者であった。
 無論それは只の馬ではなく、人のように意志をもち、言葉を操ることの出来る―――馬の姿をした精霊のようなものであった。
 純白の毛並みに銀の鬣(たてがみ)は幻想的なお伽話の一場面を思わせた。



“いいえ、もうすぐです。いきなり起きられて不機嫌になられては困りますので、今のうちに”

 その白馬はその子供を薄青の瞳で優しげに見つめた。
 だが子供はすねたように口を尖らせた。

『僕、そんな不機嫌にならないよ』

“いいえ、なります”

『うそ!』

“嘘ではありません”

『がんこもの!』

“…………”

 白馬はどこか疲れたように沈黙を落とした。
 子供―――少年なのだろうか。ともかく“彼”はふあ、と……欠伸をした。

『ねえ、僕、まだ眠いんだ。返してもらうまでこんな調子なんだから、起こしてもらうのはその時だけでいいんだよう』

 無邪気な仕草で目を擦る少年。
 白馬は何とも言えず、ただその様を見守る。

『わかった? ケイ』

“……わかりました”

『それじゃ、おやすみ。ケイ』

 ようやく最後に少しだけ微笑んで、少年はまた泉の中へと沈んでいった。
 白馬がもう一度見下ろして見えるのは、少年が穏やかに息をする様子も無く―――ただ“眠っている”様子が見える。
 この一見何とも思わないような光景は、世界で起きていることの重大さを直接表しているようなものだ。






 白馬は憂いを含む瞳を伏せ、その背に月光を浴びていた。