夜明けの少し前に

第四十七話





 ぽた、ぽたり。



 被っているフードの端から幾つも雫が滴っているのが視界に入る。
 その向こうに浮かぶのは、雨に煙る人気の無くなった通り。
 それはそうだ、こんな雨の中フード一つで歩いているのは自分くらいだ―――と苦笑を浮かべようと、した。

 上手く、笑えなかった。

 板についたはずの苦い笑みは胸の痛みに打ち消され、それはそのまま突き上げるような感覚でエイジスを苛んだ。
 歩みはいつの間にか止まり、やがて気付く。
―――マントの下の手が、震えている。

 ゆっくりと、外に出して手の平でしきりに降る雨粒を受け止めた。
 瞬く間に濡れていく見慣れた手の平は、確かに震えていた。
 それは恐怖からではなく……まるで、飢えているかのように。



 脳裏によぎる、青。



―――震えているんじゃ、ないか?



 自分のようにではない。
 雨に打たれて、身体が冷えてしまったんじゃないか。



―――まさか。宿に戻っているだろう。



 自分のことは、幻だと思って。



 距離を置けば、忘れられる。
 耐えられると、思った。

 そうして、一年程が過ぎた。

 未だに記憶の鮮やかな青は夜毎に自分に囁く。

“―――……”

 聞こえないんだ、マリナ。
 おかしいな、離れていると声も遠いのか?



 ぱしゃり、と足が水溜りを踏んだ。

 ぱしゃ、ぱしゃ。
 やがてその音は感覚を狭め、一定の方向へと向かう。




































 お前を失いたくなくて



 お前を護りたくて



 世界を 護ろうとさえ 誓った。












 とんだ嘘吐きだ―――






 水を吸ったマントの重さも気にせず、ただ足を動かした。
 このまま動けば後悔することはわかっているのに―――後悔は、何時だって、感情に負ける。

 向かって、そこで、お前を見つけてしまえば……世界は、終わるのか?












 駆けた道を引き返して、また例の場所に戻る。
 一見姿が見えず、その辺りを通り過ぎようとした。

 微かに、雨音に紛れて嗚咽が聞こえる。

 ふと脇を見れば、視界に入る青。
 それは自分の中で何かが崩れた瞬間だった。















 自分を見上げる瞳は、長い間とどめてきた愛しさをいとも簡単に決壊させた。



「―――っ、エ……ジ」

 指が塩辛くなる。
 後から拭っても足りない。



 喉がつかえて言葉が出ないから、いっそ唇を寄せた。

 懐かしい、甘く柔らかなそれは今も変わらなかった。



「ごめんなさい、エイジス、ごめんなさ……い」

 自分に縋りつきながら必死で言う彼女。
 もういい、いいんだとは言葉に出来ず、ただ抱きしめて口付けを繰り返した。












 マリナ






 私は お前に 出会ったことを

 後悔 したくないんだ……




























































 雨の所為で人が増えた食堂に、一人の少年が入ってきた。
 しばらく雨に打たれていたのか、こげ茶の髪から全身ずぶ濡れであった。

 少年はしばらく視線を食堂の中に彷徨わせていたが、やがて一人の人物を見つける。



「どうした、リード……エイジスは何処に?」

「知らない」

 テーブルで薬茶の入ったカップを見つめていた銀髪の初老の男―――キーニアスは、近づいてきた少年を見てやや驚きながらそう問うた。
 少年―――リードはどこかうつろに短く答えた。

「今、シルアに会っても大丈夫?」

「……わからないが……」

「……ちょっと、行ってみる」

 リードはそれだけ言うと、二階にある宿の方へと向かっていった。



























「……何か、食べるものを持ってこよう」



 エルリアが椅子から立ち、ドアへと向かう。
 シルアの視線を背に受けながら、がちゃりとノブに手をかけ押した。

「…………」

 開けた先―――廊下には、一人の少年が立っていた。
 濡れ光るこげ茶の髪、明るい緑の瞳―――リードだ。

 エルリアは一瞬目を見開いたが、次には何も無いような顔をして、

「シルアの食事を持ってくる。……入っていろ」

 珍しくぼうっとした顔の彼にそう言って脇をすり抜ける。
 ドアが自然に閉まりそうになるのをみて慌ててそのままの勢いで部屋の中に入った。

「リード、どうしたの? ずぶ濡れ……」

 ベッドの上から、シルアが心配そうにそう言う。

「別に、大丈夫だよ。それより……」

「……?」

 リードはちらりと先ほど閉めたドアを振り返り、そして先ほどまでエルリアが座っていた椅子に座った。

 リードは目の前の少女を見た。
 病み上がりでその白い肌は未だあまり良い色をしていないが、表情は少し、部屋を出る前と違っている気がする。
 その理由も気にはなったが、何より気になることは他にある。

「……さっき、マリナさんに会ったよ」

「え!?」

 シルアは驚き、そして最近は見ていなかった嬉しそうな顔をした。

「そういえば、テードルに行くって、話してた……」

「うん、だよな。だけどさ……さっき、」

「さっき?」

「……エイジス、の、こと……追いかけようとしたんだ」

「……!」

 シルアの脳裏に、船旅の記憶が蘇る。

 夜の甲板に女二人で、旅の理由を明かした―――そう、その時に―――






“……不思議なくらい、綺麗な人。今思うと、何で私なんかと恋人同士だったのかわからないくらいに、綺麗な人だったの”



 綺麗な人―――そして、彼は美女と見まごう美貌を持つ青年。
 もし、マリナがアリミドナール出身なら……その可能性は、あるのだろうか。

 マリナの尋ね人が、エイジスであるという、こと……



「シルアは知ってたのか?」

「ううん、相手がエイジスさんだなんて……知らなかった」

「そうか……」

 二人で顔を見合わせ、そしてどちらからともなく俯く。
 皆が皆、何かに悩んでいて、苦しい過去を持っていて……それは互いに理解できないものなのだろう。
 まだ、互い自身すら理解出来ていないというのに、今更事情を理解しようというのは虫が良すぎるだろうか。





















「食事だ」

「!」

 ばっとリードが振り返ると、そこにはエルリアがトレーと何か布を持って立っていた。
 相変わらずの無表情で食事をシルアに手渡し、そして残った布は―――ばさりとリードの頭に。

「お……?」

「濡れたままで部屋をうろつくな……少しは気遣え」

 布の隙間から見上げて、ふと絡む瞳。
 紺の瞳は、僅かに憎しみのような、でも懐かしむような、そんな光を湛えていた。

「あ……すみま、せん」

 リードがやや困惑したままそう言うと、エルリアはふう、と息をついて部屋から出て行ってしまった。
 しばらくはぼうっとしていたが、やがて言われたとおり、わしわしと髪を布の上からかき回した。

 ふとシルアを見ると、彼女は困ったように微笑む。

「……シルア、少しだけ元気出たか?」

「え……? あ、うん……久しぶりに、何も考えないで休めたかも」

「そっか」

「ありがとう」

「あ、いや……」

 そうじゃなくて、と言いかけて、やはり言いよどむ。
 勿論体力的にも心配はしていたが、精神的にもかなり彼女は追い詰められていたように思えたのだ。






「……やっぱ、着替えてくる。またここに来るから。話すから」

 段々、じっとりとした服がうざったく感じられてきた。

「うん……」

「待ってて」

 リードはがたりと立ち上がってばたばたと部屋を出て廊下を駆けていった。
 シルアはしばらくドアの方を見送っていたが、やがて手元に視線を落としていた。