夜明けの少し前に

第四十六話





 道行く人々が、上―――空を見る。
 立ち込めていた雲がとうとう、最初の雨粒を零した。
 勢いを増していく雨に、一人、一人とそこらの建物へと入っていく。



「何か、聞きたいことは?」

 エルリアは落ち着かせた声音で、ベッドに上半身を起こしている少女に問う。
 少女―――シルアは、流れる黒髪を僅かに揺らし、布を握り締める手元を見つめた。

「……聞きたい、こと」

 恐る恐る、口を開く。

「あり……ます」

「……何だ」

「……ずっと、怖くて、聞けませんでした。でも……でも」

 色合いの違う紺の瞳は、重ならない。

「もう、今しか聞けないと思うから……聞きます」

 だが、意を決したように面を上げた。



「この旅が終わるということは……あの人が、死ぬということですか」



 十五の少女に似合わぬ言葉に、エルリアは微かに眉をしかめる。
 そして、自らも落ち着けるようにゆっくりと、応える。

「―――死ぬのでは、ない」

「でも……!」

「返すのだ。借り受けたものを、返すのだ」

 肩を震わせながら揺らぐ少女の瞳を直視できず、情けないとは思いながらも窓の外を見やった。

 空は既に、泣いていた。

 雨音がいつの間にか辺りに響いていて、今更ながらそれは長い耳にも届いている。
 少し、強い雨……何かを洗い流すには充分なほどの、雨。



 死にゆく同胞。
 悲鳴が、咆哮が、哄笑が総て雨に流される。



 青い光。
 そして流れるのは相反するかのような、真紅。



 それと同じ色の瞳を持つ男は、その様を眺めていた―――やはり、微笑を浮かべて。



「―――……」

 瞳を、閉じた。
 耳を塞ぎたかったが、それも許されないと思った。


















 突発的な雨は勢いを増していく。


















「…………」

 立ち上る湯気から、窓の外へと視線を移す。
 たった今運ばれてきた薬茶の入ったカップの取っ手を掴んだ時、窓ガラスを少しずつ水滴が叩いてきた。

 少し強い雨。



“父さん”



 深い緑の瞳に宿る感情は、長い年月を経て尚苦々しい。



“あんたは、俺に何をしてくれた?”



 コト、とカップは口に運ばれること無く机に戻された。
 苦笑も、今なら浮かべられると思った―――のに。

 もう、自分がわからない。
 今まで捨て去ろうと、忘れ去ろうと、そうして竜族の長を未だ努めてきた。



 どうしてあの男が、我が息子に愛された?



 嫉妬にも似た感情は、閉じた瞳の中でただ抑え付けられる―――。










































「退いてください、お願い……!」

 雨を避けようと道を横切り、せめぎ合う人々。
 何人かが訝しげにそちらを見やるが、やがてそれも気に留めず思い思いの場所に向かっていく。

 息が荒い。
 理由は―――走り続けたから、だけではない。



「―――っ……」

 必要以上に鼓動を小刻みに打つ心臓に苛立ちながら、やっと開けた道の向こうを見た。






 居ない。






 一気に、身体が冷えていく感覚に襲われる。
 雨音が今更耳に届き、それが身体を打っていることにも一瞬遅れて気付く。

 まだ、まだ……

 並ぶ建物の隙間―――路地裏を片っ端から覗こうと、手始めに右の方へと駆ける。
 早くも出来た水溜りをぱしゃぱしゃと弾きながら辿り着く、細い道。

 やはり、誰も居ない。



 呆然として、雨に打たれる。
 ふと頬を伝うものに気付いた時、膝の力ががくりと抜けた。

 泥水に浸かってしまう事も構わず、ただ俯いて声も上げず泣き続ける。

 あの声が、忘れられなくて―――



「マリナ……さん?」

 おずおずとした、少年の声。
 振り向くことも億劫で、次の言葉をマリナは待った。



「エイジスと……知り合いなのか?」

「…………」

 マリナは、ゆっくりと立ち上がった。



「探している人……あの人なのか?」

「……そうよ」

「でも、何で―――」

「もう何も言わないで!!」

 振り向かずにやけになって叫ぶ。
 ぱしゃ、と言うのは誰かが間もなく出来た水溜りを踏んだから。
 続く水音―――雨に煙る向こうの少年の影は、やがてどこかへと去ってしまっただろう。



(“何で”? そんなの……そんなの)






「―――っ、私が……聞きたい……」



 自分の余りの無謀さに、失望して腹も立たない。

 どうして、彼を追ってきてしまったのだろう―――こんな、長い時間をかけたのに自分はちっとも変わっていなかった……愚かしいくらいだ。



 名を呼びたくても、唇が震え、喉が詰まったように動かない。






 まるで、それを呼ぶことを許されていないかのように―――。