夜明けの少し前に

第四話





 帰ってきた、イシュフェルードの地。
 やや砂っぽい地面に、石造りの重厚な建物たち。天気が悪い所為か、陰気な印象が付きまとう。
 やはり、緑が少ないと感じてしまう。生えている木もみな低木ばかりで、あの生い茂るような瑞々しさは感じられない。

 たった一晩、滞在しただけなのにこうも見方が変わってしまうものなのか―――

 シルアはそんな軽い驚きを覚えながら、我が家へと足を向けた。









 しかし、そうして複雑さと懐かしさを織り交ぜた眼差しでイシュフェルードを眺めたシルアの姿を、一人の人物がある建物の高い窓から覗いていた。

 その人物は、何やら焦りのような苦渋を浮かべ、やがて立ち去っていくその少女の姿を見つめていた。






























「お母様、ただいま戻りました」

 分厚い木のドアをぎぃ、と開けて少し声を張り上げる。
 すると、奥からぱたぱたという軽いせわしない足音が。

 出迎えたのは、やはりシルアの母―――リゼアだった。

「お帰りなさい、シルア! 疲れてない? 体調はどうかしら?」

「大丈夫よ、お母様」

 まだ豊かな、黒髪。深い青の瞳。白い肌。
 父のことを知らないシルアだが、この優しく美しい母がいるということが既に喜ばしく感じられる。

「そう、よかったわ……初めてのお出かけだものね。慣れなかったでしょう」

 お出かけ、というどこか可愛らしい響きにシルアは苦笑する。

「ええ。でも……とても、綺麗なところだったわ」

「まあ」

「森の緑が、とても濃いの。あそこから見る月もとても綺麗よ」

「そうだったの……私も、見てみたいわ」

 少しうらやましそうに言うリゼア。敵地なのよ、とシルアは言いかけてそれはやめる。
 そして、自分の言葉にある記憶を思い出す。

 月を見ていたら、現れたフォルンの少年。

 やはり、こげ茶の髪に緑の瞳。
 だけど、あの緑は誰よりも―――あの、彼の父であるフォルンの長アラードよりも明るく澄んでいて、真っ直ぐだった。

 初対面から彼を睨みつけていた自分を、彼は特に怒った様子でもなく、やめてくれないか、と言ってくれた。
 もしあの言葉が無ければ、未だに自分はフォルンの少年を睨み敵意を膨らましていたかもしれない……



「それで、神託のフォルンの子とは会ってきたの?」

 その言葉に、今しがた思い出していたこともあってシルアはどきりとする。
 何気ない様を出来るだけ装って答える。

「会ってきたわ」

「そう。どんな子だった?」

「どんなって……」

 それは、性格のことだろうか。それとも―――

「……森の色をしてたわ」

「森?」

 母リゼアはきょとん、とした顔で問い返す。

「こげ茶の髪に、明るい、綺麗な緑の瞳をしてたの……」

「まぁ……確かに、森の色ね」

 感心するリゼア。

「さ、お昼にしましょうか。ちゃんと、準備しておいたのよ。食べましょう?」

「ええ」

 特に追求もしない母に、シルアは少しほっとする。
 こんなことを思ってしまってもいいものか……と、シルアは複雑な心境でもあった。






 この母は、特にフォルンを敵とみなしていない。
 元々、そういう人なのだ。対立だとか、敵意だとか、そんな負の感情は忘れてしまう人なのだ。
 じゃあ、自分は見たことも無い父に似たのだろうか……とシルアはどこかで苦笑する。

 だけど、だからこそ、その負の感情を忘れるのではなく―――原因から無くしてしまえたら、どんなにそれは素敵なことだろうか。

 そして、自分は今、もしかしたらそれを出来る可能性を持っているのかもしれない……



(お母様)



 台所で笑顔を絶やさず昼食の仕上げに取り掛かる母リゼアを見る。






―――私は、いってきます。でも、絶対帰ってきます。
    そして、お母様、何より貴女の笑顔を……













































「よーう、リード。ご機嫌斜めだな。これから旅に出るって言うのに」

 やたら陽気な声が後ろからかかり、リードは眉をしかめて振り返る。
 振り返った先には、癖のある明るい茶色の髪に緑の瞳の青年。

「なんだ、ハルか……」

「なんだはねーだろ、なんだは」

 また俯いてはぁ、と露骨にため息と悪態をつくリードに、ハルは特に怒りもせずリードの顔を覗き込む。

「元気ないな。何かあったのか?」

「……いや」

 少し脇にある、この従兄弟であり幼馴染の一つ上の青年の顔をちらりと見る。
 ハルと呼んでいるのは、本名がハルディンというからだ。ハルディンは彼の母親に似たらしく、こげ茶の比較的直毛の自分とはあまり似ていない。昔から仲のよい兄弟のように遊んできた。

 性格は基本的に明るい―――というよりは楽天家、能天気に近いのだが、それでも人を気遣うことは忘れないので周りからの人気はある。リードも彼のそういう部分が好きであった。

「嘘つけ。絶対何かあっただろ―――あ。もしやこれは」

「な、なんだよ……」

 にぃっと、意地の悪そうな笑みを浮かべてリードを見るハルディン。

「さては、あっちの巫女さんに惚れたなぁ」

「なっ……なんでだよ!!」

 リードの余りの剣幕に、半分冗談のつもりで言ったハルディンも少したじろぐ。
 ハルディンも、イシュフェルードの巫女は美しいという評判は聞いていたのだ。
 一方、リードもやたら否定を強調してしまいなおさら落ち込む。

 気を取り直してハルディンは話を続ける。

「ま……まぁまぁ。これから一緒に旅するんだ、何か進展があってもおかしくないだろーが」

「あってたまるかよ。相手はイシュフェルードだってのに」

「……そりゃ、まあなぁ」

 ぼりぼりと頭をかきながら何ともいえない表情でハルディンは辺りを見回す。

 そこは、例の森の入り口だった。
 リードは、そこにある例の―――シルアが座っていた倒木に腰掛けている。

 あの夜からもう2日……なんでここにいるかというと―――それは、よくわからない。

 今は月の代わりに、初夏の眩しさを増しつつある太陽がさんさんと輝く。
 あの夜のことが、なおさら遠い過去の出来事に感じられてくる。

「でも、つまんないこと考えるなよ。あちらもこちらも、元はおんなじ人間なんだから」

「わかってる……わかってる」

「ほんとかよ、全く……」

「……ハルは、さ」

「あん?」

 いきなりそう声を掛けられ、ハルディンは間の抜けた声を出す。

「何だ」

「外の世界、行ってみたいと思うか?」

 ここでリードはやっとハルディンの顔を見上げる。ハルディンはまだ立っていて、リードを見下ろしていた。
 その表情は、どこか不安で……どんな答えを求められているのかわからず、ハルディンは余り深く考えずに答えることにした。

「そりゃ、行ってみたいな。ここだけで暮らすなんてもったいないしな」

「そう、だよな」

 わかっていたように、自分自身に言い聞かせるようにリードは言った。
 ハルディンは話の流れに乗ってそんな彼に尋ねる。

「……リードは、どうなんだ。行ってみたいだろ?」

「……ああ」

 見上げるのをやめ今度はどこか遠くを見つめるリード。

「なら、迷うこと無い……だろ。思い切って行ってみろよ。絶対、見る目が変わるぞ」

「うん……」

 いまいち覇気の無いリードに、ハルディンはふう、とまた頭に手をやり嘆息する。
 ふと、そのハルディンの表情が影を差したものになる。






「―――行っちまえよ、こんな……対立だらけの土地なんか捨ててよ。
外に行って、それを変えられるぐらい、強く、大人になって帰ってこいよ」






 突然の、そんな従兄弟の言葉。
 それは、どこか哀しみを帯びたものでもあった。

「ハル……?」

 その時の沈んだ表情は見えなかったもの、訝しげにリードはハルディンをもう一度見上げた。

「あ―――いや。とにかく、あんまり落ち込むなよ。周りも、心配するぞ」

「…………」

「あ、いや、追い出そうとしているわけじゃないぞ? あくまでも、その方がお前のためになるって言ってるんだ」

「わかってるって」

 妙に焦って言い訳をする従兄弟の様子に、ぶ、と軽く吹き出すリード。ハルディンも、それを見て少し表情が和らぐ。

「ま、お前なら何があっても大丈夫だとは思うけどな。―――じゃあ、な」

「ああ。ありがとう、ハル」

「おう。気にすんな」

 にっと底抜けに明るい笑顔で去っていくハルディン。
 その従兄弟のお陰で少し気分が晴れたリードは、手を振って見送る。

 だが、彼の言葉が少し引っかかる。



―――行っちまえよ、こんな……対立だらけの土地なんか、捨ててよ―――

―――外に行って、それを変えられるぐらい、強く、大人になって帰ってこいよ―――



 それは、彼の思いの総てが込められているような、苦しげな言葉……

 自分は、彼のそんな思いを受け止め、期待に応えられるのだろうか?
 彼は、他人に自分勝手に期待を求める人ではない。だが、それでもこう言ったということは、それだけ何かの思いがあるということではないだろうか……?

 幼馴染であるのに、実際彼の知らない部分の方が多いことに気付く。
 世界を見てくれば―――いずれ、色んなものが見えてくるのだろうか。

 父の言葉とも相まって、それはリードの中である形になっていく。






「……わかったよ、ハル」






 先程別れを告げた従兄弟に向けて、彼は呟いた。






―――俺は、強くなる。
    世界を見て、強くなって、また、此処に戻ってくるよ。