夜明けの少し前に

第三十八話





 ばたんっ!



 廊下にドアの勢いよく閉まる音が響く。

「―――そういえば、どこにいるんだ!?」

 次に聞こえるのは少年の焦った声。

 リードが廊下の左右の端を見渡しながら言う。
 廊下に居るのは、ドアの前に立っているリードとシルアの二人のみ。
 夜中とはいえ、妙に人気が無い。

「さっきの客室じゃ……」

 そうしてシルアの方を見る。

 彼女は紺の瞳を閉じ、焦った様子もなく真っ直ぐ立っていた。
 理由は分からないが意識を集中しているのだと一瞬の間を置いて気付き、それを見守る。



「―――お前達!!」



 すると廊下の向こうから響いてくる、毅然とした女の声。
 リードがそちらを見ると、向かってくる影が二つあった。

 紅く煌く髪を揺らし、やや息を切らして近づいてきたエルフの女性。

「何をしている―――何があった?」

「あ、いや……」

 その剣幕にリードが慌て、シルアを見る。
 すると更に声が掛かる。

「エルリア、落ち着け。少年、黒の蝶の大群が来なかったか」

 エルリアと呼ばれた彼女の後ろには、銀髪の初老の男性。
 彼女よりは幾分冷静であるものの、焦りは隠せない。

 こちらの会話も耳に入っていないように微動だにしない黒髪の少女。
 リードはその質問に答えた。

「来ました。そいつらが部屋から出て行った後、シルアが……」

「目的は月の光―――王子の許だ。急ぐぞ……ん?」

 その男性―――キーニアスはリードを見た後シルアに目をやり、訝しげな声を出す。









 感じる。









 近い。近い。
 それは距離じゃなくて、何か別の―――

 触れられる。混ざる……そう、混ざる。

 一つになる―――






「―――!」

 シルアはぱっと紺の瞳を開いた。

 身近に感じる波動―――完全に捉えたそれを無意識に辿り、足を動かし始めた。

「シルア!?」

 隣にいる少年の声も届かず、自然と足は駆け出す。
 こっちの方が近い。大きい。より、感じられる。

 こんな感覚は知らなかった。

 二人がやって来た方向とは別の方向へと廊下を駆けてゆく。
 初めて感じた時とは比べ物にならないほどに微弱な波動。
 でも今、自分の感覚はそれを辿るために恐ろしいほどに研ぎ澄まされている―――















「行くぞ」

 キーニアスはそう放った後駆け出した。
 リードは弾かれたようにそれを追い、エルリアも一瞬遅れて走り出す。

「―――どこへ……!?」

 リードの問いに、キーニアスは駆けながら振り返らずに答えた。



「王城の離れ―――小さな館だ」






























 栄華を謡う王都フランデュスの中心に据えるアリミドナール王城。
 広大な土地、それに比例する巨大な城。
 敷地内には軍用などに様々な建物も点在していた。

 だが、その中に一つ、ひっそりと存在する場所があった。



 他の庭よりも深い茂み、深い林といっても良い様なほどの木々に囲まれた、そこ。
 王族を始め、極々一部の忠臣しか知らぬ“館”があった。



 住まうは白髪の貴人。
 老いることを知らず、今日もその麗人は月を仰ぐ。

 “月から生まれた子”―――

 一度死に、生まれ変わったが故に忌避された先々王、ジルベルトの第一子―――『幻の第一王子』と称される、エイジス=ノル=セスタ=アリミドナールが其処で日々の暮らしを送っていた。






























「館……?」

 リードはやや息を切らしながら呟いた。
 一方キーニアスは不思議と汗一つかかず走り続けている。
 エルリアはというと、先ほどから少々遅れがちになってきていた。

 先を走る少女はやがて体力の限界が近づいてきたのか、とうとうその足を止めた。
 リードが駆け寄り、膝に手をついてはあはあと苦しげに息をつくシルアの顔を覗き込む。

「大丈夫か!?」

「……っ、まだ」

 息を荒げながらも顔を上げ、瞳を真っ直ぐ前に見据える。
 その瞳に不安や迷いは無く、一体何があったのだろうとリードが不思議に思っていると。

「―――埒が明かないな……二人とも、エルリア、ついて来い」

 キーニアスが諦めたようにそう言い放った。

「え?」

「あ、の……」

 今まで何度も曲がって、現在居るのは両壁の一面が窓張りの廊下だった。
 ほっそりとした弧を描く月がぽつんと浮かぶ夜空が右の窓の向こうに広がっている。

 キーニアスは窓の前に立つ。



「月の力が借りられないのは少々苦だが―――止むを得まい」



 頼りなげな月光に目を細め、呟いたかと思うと。



「……キーニアス……!」

 エルリアがふうふうと息を整えながら驚きに紺の瞳を見開く。



 まるで光を集めているかのように、光の粒子のようなものが彼の身体を覆い始めた。
 やがて全身を覆ったかと思うと、その“光の人影”はたちまちその大きさを変えてゆく―――めきり、とでも音がしそうなほどにそれは膨れ上がるように。

 やがて四肢を持った何かの動物の形をとったかと思うと、最後に背に何かが生えてくる。

 それは見まごうこと無い、翼の形だった。



 ぱんっ、と光が弾け、其処に現れたのは銀の鱗が月光に輝く竜の姿だった。



「な……竜っ……!?」

「嘘……」

 自己紹介を聞いてはいたものの、実際に見てみると驚かざるを得ない。
 エルリアが叫ぶように言った。

「此処で変化しなくとも―――私の転移術で!」

 すると竜―――いや、キーニアスはむくりと頭を動かしエルリアを見下ろした。

『余計な力を使うな。唯でさえ月の力が衰えている』

 大きな顎が僅かに動いたようだが、聞こえてくるのは確かに自分達の使う言語だった。
 そして広めの廊下一杯の身体をやや伏せるようにし、

『さあ、乗るんだ。鬣(たてがみ)にでもしがみ付いていろ』

 動いたことでふさりと揺れた、真っ白の鬣をリードとシルアはごくりと見上げた。
























 ガラスを突き破る派手な音が響き渡る。
 いや、正確にはキーニアスの大きな翼が窓を叩き割る音だった。
 窓枠から何まですっかり取り払ったかと思うと、のそりと巨体を前に進めだした。



「―――何だ、何が―――」

「賊か―――警備兵、早く―――」



 やがて廊下の向こうから聞こえてくる喧騒。
 リードとシルアは咎めなどの不安にそわそわとしていたが、エルリアはやや思い詰めた様な真剣な瞳で、今しがみついている竜と同じ方向を見据えた。



「―――っきゃ!?」

 シルアの悲鳴もかき消される。
 そう、キーニアスの身体が廊下から脱し―――宙へとその身を躍らせたのだ。

 ある程度の高さがあったのか、その巨躯は意外にも軽やかに滑空を始める。

 そして、一度ばんっ、と空気を叩くようにして―――空へと舞い上がった。

「……うわ……」

 轟々という冷たい風が吹く上空、リードは今しがた飛び去った場所を見下ろす。
 どうやらそこは棟と棟を繋ぐ渡り廊下だったらしく、目を凝らせば微かに人のような点が動くのが見える。

 そして横を見渡せば、そこは一面夜の世界。
 深い深い、限りなく黒に近い紺が広がり、今宵は消え行く残滓である弧を描いた黄金の月が浮かぶ。
 星達は頼りなげに瞬き、月光が衰えを見せる今、その存在を主張しているようにも思える。

 だが感動に浸っている間もなく、銀の体躯は夜空を滑り出した。

『娘よ、向こうで良いのだな』

「は―――はいっ」

 吹きすさぶ風に髪をなびかせながら、シルアが一杯一杯という風に答える。
 それを聞いた途端、見る見る速度が増していく。

『エルリア、頼む』

 そんな中キーニアスの言葉に、エルリアは叩きつける冷気をやり過ごしながら口を少しの間動かしたかと思うと、彼女の手のひらに無色透明、シャボン玉のようなものが生まれた。
 それは瞬時に大きくなり、すっぽりと彼女と二人を包み込む形になった。

「あ、風が」

 シルアが抑えていた髪から手を放し周りを見る。
 リードもきょとんと自分を包む膜を見ようとする。

「空気の保護膜だ。速度が落ちてしまうが、お前たちが落とされては意味が無いのだ」

「…………」

 それもそうだ、とリードは今更自分の居る高さを認識して寒気を覚えた。









『降りるぞ』

 それを合図に、キーニアスの身体は徐々に降下していった。

「あっ……!」

 シルアが声を上げる。
 確かに、少し広めの林の中に小さな館が見える。
 徐々に近づくにつれ、庭があり、扉があり、窓があり……と確認できる。

 そしてその窓から見えるのは。

「シルア、あれ……」

「ええ、エイジスさん……だわ」

 一つ、開け放たれた窓から覗く人物が居た。
 シルアがエイジスだという人物は窓辺から離れてしまった。



























「―――わざわざ、竜になってきたのか!?」



 驚いた声を上げて、屋敷の中から出てきた黒髪の青年―――エイジス。
 林の木々を何本かばきばきと潰しながら着地したキーニアスを唖然と見上げる。

『何かがあった後では遅いのだ』

 伏せるようにして乗っていた三人を降ろすと、首を動かす。
 暗緑色の瞳が年を重ねた深みを持って、エイジスを見た。

『それに、林の中で迷う気は無かった』

「…………」

 その瞳の意を、エイジスは苦々しく汲み取った。
 そして、彼もまた思い詰めたように紫の瞳を閉じ、また開く。

「……魔族がやってきた」

「魔族!?」

 キーニアスの背から降りた三人は、その大きな頭とエイジスの元へ駆け寄る。
 リードが夜であっても明るい緑の瞳をぱちくりさせてそう叫んだ。

『あの蝶は使い魔だろう……厄介なものだ』

「……王子」

 エルリアがきっと睨むようにエイジスを見る。

「あの酔狂魔族がいるのだろう。何処に居る」

「酔狂……」

 エイジスは聞いたような単語に苦笑を禁じえなかった。
 エルリアが更にむっとするのも無視し、答える。

「呼べば来るだろう。神出鬼没とやらだ」

「…………」

「正直に言おう、ある意味今回はその酔狂魔族のお陰でこの辺り一帯が壊滅するのを防ぐことが出来た」

「何だそれは……」

「どうも、あいつは相当に他の魔族を怯えさせているらしいな」

『サレディ=ヴィスタは現在、最も有力な魔族だ。変わり者としても有名だがな』

 キーニアスが竜のまま付け加える。
 エルリアは悔しげに唇をかみ締めた後、隣に居る竜の瞳を見上げて言う。

「そろそろ戻らないのか?」

『ああ、そうしよう』

 また、光の粒が彼を包み、速やかにその巨躯を人型へと変えてゆく。
 光が弾けて、現れたのは初老の銀髪の男性。

 彼の周りといえば、草は潰され木々はなぎ倒され、どうみても彼一人がそうしたとは思えない程の痕跡を残している。

「しかし……あの姿に戻ることすら労力を要するとは」

 その割に疲れを見せる様子も無くそう呟きながらさくさくと草を踏みエルリアの近くに歩み寄るキーニアス。
 そしてエイジスをちらりと見る。

 ふ、とエイジスはまたも苦笑を浮かべ軽く息をついた。



「ようこそ、月の館へ」