夜明けの少し前に

第三十七話





 その晩―――

 尋常ではない速度で夜空を移動する漆黒の雲を、アリミドナールに暮らす人々の一部が確認した。













































「―――すまない、キーニアス」

「いや……それより」

「?」

 やはり王城の客室の一つに、エルフの女性と銀髪の男性が居た。
 未だ気の沈んでいる彼女の詫びに、キーニアスと呼ばれた彼は上の空にただ窓の外を見ていた。

「エルリア、あれは―――」

 エルリア、と呼ばれたエルフは彼と同様窓から夜空のある一点を確かめた。



「―――何だ、あれは」



 戦慄からの緊張が、声を張り詰めさせた。













































 ばだばだばぢっ……



 いきなり耳に入ってきたのは、窓ガラスを雨粒とも違う何かが物凄い勢いで叩きつけている音。
 リードがばっと頭を上げ、シルアは彼に少し遅れて窓の方を見た。

「きゃ……!」

 シルアは彼に無意識に身を寄せる。
 唯でさえ夜空という背景に黒いものがびっしりと蠢き張り付くその様はあまり気味の良いものではない。
 リードも正直一瞬怖気づいたが、何とか目を凝らしてそれらを見る。

「蝙蝠……?」

 いや、それにしては小さい。

 だが考える間もなくそれらは自らの意思のように開け放たれた窓から一斉に侵入してきた!



「うわっ……!?」



 勝手気ままなようでよく見ると固まって飛び交うその黒い群れの正体は―――漆黒の蝶だった。
 群れは部屋の天井に近い部分を円を描くように飛び回り、やがてその中のたった一匹が、ひらひらと群れを離れる。

 ざざざという羽のぶつかる音が響き続ける。

 おそらくその辺りのものと変わらない舞い方で近づいてくる一匹の蝶。
 不思議と燐粉は飛び散らないものの、羽が仲間や天井を叩く不快な音がシルアを怯えさせた。
 リードはシルアをぐっと抱き寄せ、近づいてきた蝶を睨んだ。

「……出てけよっ!」

 少々滑稽とも思えるが、リードはその代表に向かって噛み付くように言った。
 蝶はそれに怯える様子もなく、ひらひらと二人の周りをまるで観察するように漂う。
 リードは腰元にある剣を抜こうと柄に手をかけるが、どうも得体が知れず中々次に踏み切れない。
 唯の蝶ではないことは、重々承知だった。

 すると、その蝶は不意に動きを変え、そのままふらりと窓の外へと出て行ってしまった。
 途端に天井で忙しくしていた蝶たちは我先にというように酷い雨音のような勢いでそれを追って部屋を後にした。

「……?」

「蝶……行った?」

 シルアが恐る恐る問う。
 そうして二人で身を寄せながら呆然としていると。



「―――!」



 シルアが弾かれたように顔を上げた。

「どうした?」

「……エイジスさんが」

「え?」

「その、何か予感がするの……行かなきゃ」

「……わかった」

 シルアは幾分抑揚を取り戻し、リードから身体を離して立ち上がった。













































 ひらり、ひらり。



「―――……?」

 エイジスはベッドに腰掛けている自分の膝に舞い降りた、小さな黒いものを見下ろした。
 ぱたぱたと無邪気に動く羽。それを目で楽しむこともなく―――彼は立ち上がる。
 何故なら、部屋の照明が一気に消えたからだ。

 月明かりのみの部屋の中、膝から離れたそれはひらひらと彼と対峙するように、定まらないながらも一定の空間を漂う。
 彼はしばしそれを訝しげに見つめ、やがて窓の外を見る。



 突如、漆黒の蝶の群れが砂を浴びせる勢いで部屋の窓から侵入してきた。



「……っ、何だこれは」

 光も届かない、騒がしい闇が出来る。
 自分を取り巻く黒の固まりを軽く手や腕で払いながら思い当たる。

 蝶だ。蝶には違いない。
 だが一つだけ、決定的に違うことがある。



(こいつらには、主人が居る)



 人々はそれを、使い魔と呼ぶ―――



「邪魔だ―――」



 彼がそう呟き、紫の瞳を細める。
 そして彼の周りに何かが膨れ上がり、蝶たちは吹き飛ばされるように彼の周りから散った。

 月光に浮かび上がるのは、遠巻きに漂い、やがて彼を囲む円を成した群れ。
 操られているとは知っていても、個々それぞれに意志があるような気がして気分が悪い。

「誰の命で来た」

 無論、蝶たちが喋るわけはない。
 だがそれは肉声の話で、この場合は彼らの中に刷り込まれたある存在をこちらに伝えろということだ。

 だが、それは無用だった。



「俺だよ、王子サマ」



 若い、どこかひねたような男の声。
 エイジスはいつの間にか黒の輪が途切れている―――窓辺を見た。



 月を背にした―――濃い、灰色。
 その髪はくすんだ印象を持ち合わせるはずなのに、何故か妙に凶暴な印象を受けた。
 漆黒の蝶たちから、てっきり黒という印象もあってその人物をまじまじと見る。



「黒髪……だと、思っただろう?」

 にや、と楽しげに笑みを浮かべる。
 最初は狂気のみがなすものだと思っていたが、徐々にそれは違うと思えてきた。
 確かにズレはあるが―――そう、何か、違う。

「知るか。髪の色などどうでもいい」

「ふん、そこいらの人間よりは長く生きているのだからましな会話をしてみろ」

「灰色は好みじゃない」

「……残念だ」

 男はくっ、と小さく笑うと一歩、足を進めた。
 黒ずくめの姿は光を背負っている所為で一種の影のようだった。

「貴様だろう? 月の光を持っているのは」

「そうだが?」

「いやにあっさりと認めるな」

「解りきっている質問も好きではない」

「そうか」

 エイジスの淡々とした返事を男は楽しんでいるようだった。
 今度はエイジスが尋ねる番だった。

「お前は何をしに来た」

「何、か。そうだな」

 すると男は何故か考えるような様子を見せる。
 エイジスは訝しげに思い眉をしかめる。

「……お前は魔族か?」

 新しい質問を投げかけてみる。
 男はそれに、ようやく浮かび上がってきた灰青の瞳を面白げに歪める。

「……だったら、どうする―――」



「どうもしません」



 突如響いた、穏やかな声。



「……っ!!」

 灰髪の男はいきなり焦る様子を見せた。
 エイジスは夕食前にも聞いたその声に、間を置いて振り向く。

 茶の直毛を、暗い部屋の中薄明かりで浮かび上がらせ現れたのは―――柔和な微笑をたたえる魔族、サレディ=ヴィスタ。

「興味が無いとおっしゃったのは、どこの誰でしたか」

 赤の瞳が、月光に鋭く光る。

「……何をしたっていいだろう」

「人に迷惑をかけてはいけません」

 それは親が子に、教師が生徒に諭すような―――



「―――サレディ=ヴィスタは堕ちた」

 灰髪の男は憎々しげにそう吐き捨てた。

「人どころか―――竜やエルフと馴れ合うとはな。お前に従う者は酔狂というやつだ」



「……酔狂」

 サレディはその単語を感情も無く繰り返した。
 いや、微笑は消えていない。ただ、声には何も無い。

「貴様がもたもたとしている間にも妖魔どもは活気付いている……どう責任をとるつもりだ」

「責任?」

 とぼけるような口調が、男の癇に障る。

「―――だから期待出来ないと―――!」

「勘違いしないで下さい」

 エイジスは、二人のやり取りをただ黙って見ている。



「私は一度も貴方に、『月の光を持ち帰る』―――なんてことは言っていませんよ」



「―――なら貴様は……!?」

「まあ、貴方のような子供には理解は出来ないでしょう」

「子供だと……!」

 男は憤慨に灰青の目を吊り上げている。
 いつの間にか使い魔の蝶たちは、じわりじわりと彼の周りを漂い始める。

「ええ。まだ人間の方が大人です」

 エイジスはサレディの言葉に小さく笑いたいところだったが―――そうもいかなかった。
 魔族である男の魔力は徐々にその圧力を増し、蝶たちはその波を表すように蠢くのだ。

「ほら、貴方と同じくらいの年齢の方々が感づきましたよ」

「何だと!?」

 サレディが面白がるように―――寝室のドアの方を見た。
 エイジスはすぐに察し、呟く。

「―――巻き込まれるぞ……!」

「……貴方はよろしいのですか」

 エイジスが焦りを見せてドアの向こうを見るので、サレディは問うた。

「切り抜けるぐらいの魔力は貰っている」

「素晴らしい」

「―――……」

 そこはかとなく、馬鹿にされているような口調。
 それもそうだ、月の光も相当なエネルギーではあるが、彼も魔族の中ではかなりの強さを誇るとみえる。
 実を言えば、エイジス自身月の光の力はまだ使いこなせていない部分もある。

「では、あの蝶たちを駆除してくれませんか」

 場違いなくらいに何気ない物言いにエイジスは苛立ちを覚える。



「……ちっ……」

 聞こえた舌打ち。
 蝶の群れが思ったよりも静かに窓から出て行ったと思うと、いつの間にか男の姿はなくなっていた。