夜明けの少し前に 第三十六話 こげ茶の髪の少年が、項垂れる黒髪の少女の手を引き部屋を出て行く。 明るい茶の直毛をさらさらと揺らし赤の瞳を笑みに歪めながら廊下へと消えてゆく年齢不詳の男。 銀髪の複雑そうな面持ちの初老に差し掛かった男が、少女と同じく力なく座り込んだままの紅い髪の女性を立ち上がらせ、支えるように部屋の外へと導いていった。 久しぶりに訪れる自分の部屋。 流れる艶やかな黒髪ごと、身体をベッドに投げ出した。 大分見慣れたこの髪も、今では他人のもののように思えてしまう。 ―――この命は、月のもの。 皆、気付いているのだろう。 あの少女の絶望を、自分は拭い去ることは出来ない。 出来や、しないのだ…… 「……シルア」 それは相手を気遣う心が込められているのに、その声自体が既に悲痛な響きを持っていた。 声も無く、ただ少年が導くままにソファに腰を落とす少女。 俯いていてその紺の瞳が虚ろなのか澄んでいるのかもわからない。 覗き込めばいい、でも、心のどこかでそれが躊躇われる。 普段からたおやかで線の細い美少女は、殊更か弱く思えた。 今繋いでいる手も、確かな熱が伝わってこない。 「シルア」 名前を呼ぶ。 ―――お願いだ、こっちを向いて。 でも、言えない。 しばし、無言の時が続く。 思い出したように、名前を呼んでみる―――。 今居る部屋は、シルアに割り当てられた客室だ。 途中、使用人にドア越しに夕食の時間が告げられたが、余り食欲は無かった―――と言いたい所だが、朝以来胃に何も入れていないのでせめてシルアの分をとってこよう、とその手を離す事にした。 一瞬、ぴくりと彼女の指が動いて―――力が篭る。 「―――……」 俯いたままだが、指の力は緩んではくれなさそうだった。 リードは珍しく苦笑を浮かべ、彼女の額に顔を近づけて言う。 「夕食、とってくるから」 自分のものとは思えない程の柔らかい、優しい声。 「シルアは、休んでて」 「…………」 すると、指が迷うように小さく動く。 リードが手を引くと、そのままそれは自然と離れた。 後ろ髪を引かれながらも、パタン、とドアを閉めてその部屋を後にする。 改めて視界を確かめれば、そこは一定の間隔で蝋燭とドアが続く豪奢な廊下。 すぐ脇には、先程夕食の時を告げてくれた使用人が居た。 「ご案内致します」 「あ、はい」 やや年配の女性が、廊下を歩き出す。 リードはそれについて歩みを進め、やがてきょろきょろすることもやめた。 彼は尋ねた。 「あの……」 「何でしょう」 「部屋に、夕食を持ち帰りたいんです……軽いもので、いいんですけど」 すると彼女は足を止めて振り返る。 「それなら、夕食をお部屋にお運び致しましょうか?」 「え……」 「お部屋にいる方と、ご一緒にお食事をなさってもよろしいですよ」 一緒に。 出来ればそうしたかったが、生憎と自分は空腹なのに対し彼女は食べる気配すらなさそうだ。隣で食事をされていては彼女も落ち着かないと思った。 「いや、その、本当に軽いものでいいんです」 「……お持ち帰り、なさるのですか?」 「はい」 「では、御用意させましょう。その間、心行くまで食事を楽しんでくださいませ」 彼女はまた前を向く。リードはこっそりほっと息をついた。 なにぶん余り抑揚がない口調なものだから、妙に緊張してしまった。 「シルア、ただいま」 ドアを開けて、銀の盆と共に部屋に入る。 盆の上にはサンドイッチと小さ目の器に入ったスープ、そして瑞々しい果物のデザートだ。 食堂に、人は居なかった。 いや、実際には使用人が数人控えていたが―――先ほどの面々はその場に現れなかった。 何だか自分だけが正常というような―――それとも周りが異常というべきか―――この状況に気が滅入ってしまう。 部屋に入ったリードの足は止まった。 ソファに、少女の影がないのだ。 「―――シルア!?」 盆をソファの前のテーブルにがしゃりと置くと、部屋を見回す。 流石王城の客間だけはあり、今居る部屋は居間のような造りになっている。 その奥が寝室、化粧室などに繋がっているのだ。 一瞬のうちに頭の中に嫌な考えばかりが巡る。 まさか、まさか。 どうして彼女から離れたのか、という後悔が彼の背中を押す――― 彼は躊躇うことなくまず寝室のドアを開ける。 ばたん、と勢いの良い音にびくりと動いた影があった。 「シルア!」 するとそこには、ぼんやりしながらも驚きを見せている少女の姿があった。 彼女はベッドの上に腰掛け、こちらを見ている。 リードは安堵すると共に急いで側に駆け寄った。 「シルア、大丈夫か? 気分は?」 「あ……」 もう俯いてはいないが、それでもその頼りなげな様子は消えては居なかった。 紺の瞳が不安に揺れ、そして明るい緑を捉えた。 少しだけ、唇に血の色が戻った。 「リー……ド」 「…………」 彼の名前を呟いたかと思うと、次にはその瞳は切なく潤んだ。 リードが驚いている間にも、その端からぽろぽろと零れだすものがある。 白い頬を伝うそれを我を忘れて目で追った後、はっと我に返り彼女の細い肩に手をかけた。 そのまま指は腕を滑り落ち、再び行き着いたその手を握る。 「リード……」 それしか知らないように、どこか拙い響き。 やがて俯き掛けるその顔を、リードは今度は屈んで下から覗き込んだ。 ぽたり、ぽたりと彼女の膝に落ちるものは、涙以外のそれに当てはまるものはない。 「どう、し……?」 自分の声まで、なんと頼りないことか。 そうは思いながらもこの不安は決して彼女から移ったものではない―――自分の中で、生み出されたのだ。 「もう、嫌」 ぽつりと吐き出された言葉にリードの目が見開かれる。 「嫌なの、怖いの……」 「シルア?」 もう一度名前を呼ぶと、彼女はふるふると頭を振って、 「私、イシュフェルードを出て……神託をこなす以外にも、色々知りたいって思ってた」 「…………」 話し始めたシルアの手を、リードは力をこめて握る。 不安をもみ消すように。 「強くなりたい、とかも思った。リードに護られて、ばかりだったから……」 「でも、それは」 「今だって!」 シルアが突然語気を荒げたので、リードは反射的に口をつぐむ。 「今だって……私は弱いまま」 震える声で呟かれた。 そんなことない、と口に出せれば良いのに、この口は思ったように動いてくれない。 「私、気付いたの……シゼーヌの、図書館、で」 「シゼーヌ?」 「どうすればいいの? これじゃ、私、どうやって―――」 握られる手にはどんどん力が篭ってくる。 それに応えようとどれだけ強く握り返しても頼りない。 どうすればいいのだろう。 戸惑いながらリードは静かに彼女の隣に座った。 微かに触れた細い肩は震えている。 「…………」 やっぱり、話してはくれないのか。 自分だって、今まで色々彼女に話してきた訳ではない。 それなのに話して欲しいと願うのはずるいことなのだろうか。 彼女は何に気付いたのだろう。 先ほどの会話では、そこで話された通りのことしか理解していない。 必死に考えても、『月の光は返さねばならない』―――それぐらいの結論しか出てこない。 そんな自分が、彼女の話を聞いて、何か助言を与えることなど出来るのだろうか? そもそも彼女が今、求めている言葉がわからないというのに。 彼女の堪えても漏れる嗚咽に、心が一緒に震えた。 ―――もしかしたら、彼女を苦しめているのは、俺……? 「リード……?」 最初は壊れ物を包むように。 最後には、自分の不安も打ち消すように、力強く。 「ごめん―――」 小さな呟きも、今なら届く。 君の力になれなくて。 君の苦しみに気付けなくて。 君を―――護ってあげられなくて。 知らなかった。 「―――ごめんな……シルア……」 ―――君の力になれないことがこんなに悔しいなんて――― |