夜明けの少し前に

第三十一話





 鬱蒼と茂る木々の中に、朝日の差し込む開けた場所があった。



 細い指先に、彼と同じ紫の光が灯る。
 その指は目の前に立ちはだかる天然の象牙色の岩壁に微かに浮き上がる紋様の中心に、静かに接した。

 その瞬間―――

 光は放射状に不規則に広がる繊細な文字にも似た溝を水が染み入るように辿っていく。
 やがてその紋様全体が紫で描かれた思うと。

 ざあ、とそれは紋様を含む岩壁の一部を全て細かい砂とした。
 後に残るのは、大人一人が通れるほどの整然とした長方形の入り口のようなものだった。



「……?」

 シルアは岩壁が突如砂になったことによって反射的に口を押さえたが、砂は一粒もこちらの目にも口にも届かない。
 風は一筋も吹いていない。だが、砂たちは何かに導かれるように地面に広がり、やがて辺りの地面と同化したように消え去ってしまった。

「行くぞ」

 その入り口を開いた黒髪の男―――今はまたフードを被っている―――ノジートと名乗る彼は、感慨も何も無く声を掛けた方の反応も見ず長方形の闇の中へと足を踏み入れていってしまう。
 後ろで見ていたリードはそれに慌ててぼやきながら駆け出す。

「何なんだよ、あれはっ」

 シルアもはっとして、リードの後姿を追う。
 少し不安になったところで、彼は唐突に入り口の前で足を止めて振り向いた。

「どうした、大丈夫か?」

「え、ええ」

 明るい緑の瞳が、柔らかい光を称えている。
 そのことに心を落ち着けながら、彼の隣に並んだ。
 そしてこれからの闇のために、指先に光球―――明かりを生み出した。

 次に駆け出す時は、彼も速さを落としていてくれていた。



「―――何をやっているんだ」

「少しぐらい待ってくれたっていいだろ!」

 二つの明かりが照らし出す岩壁は、表面は粗いが確かに入り口の形のままくりぬかれていた。

 永遠に続きそうな岩壁。
 入り口から少し入ったところで、ノジートはそう言い放った。

 ここまでのノジートの不機嫌さにリードも苛立っているのか、少し語気を荒立てて言い返した。
 シルアはおろおろとしていたが、どちらの肩を持つべきか迷っている。
 彼女もまた、ノジートの様子に戸惑っていた。

「言われたことは早く済ましたい性分なのでな」

「何が性分だよ……」

 むすっとリードはそう呟いた後、少し後ろに居るシルアをちらりと振り返る。
 ここで彼女に同意を求めようかと思ったが、それは少し躊躇われた。

 ノジートも既に自分で光球を生み出していた。
 そしてリードはそれが出来ない。よって、こういう時ではシルアかノジートの側に居なければいけないということが必然となる。

 だがノジートの側に行く気など到底無い彼は、シルアの隣を歩くことにした。
 ランタンを持っても良いが、いざと言う時に邪魔になることを思うとどうも気が進まない。
 シルアもそれをわかってくれているらしく、漂う光球を彼との間に誘導させた。

 小声で礼を言おうか、とちらりと彼女の横顔を見た。

 見慣れている白い肌が、光球の白い光に照らされている。
 紺の瞳が月の浮かぶ夜空のように思われて、思考も止めてそれに見入った。
 前を行く男よりも幾分柔らかそうな、それでいて艶やかな黒髪は一層その輝きを増したように見える。
 彼女の睫毛が、壁にある影にもしっかりと映っていた。

「―――……」

 そして口をぼんやりと開けていたことに気付き、はっとして前を見る。
 礼を言い損ねた、と思いながら前行くノジートが視界に入る。

 やや顔だけ振り返っていたノジートはその表情の一連を見ていたのか、今度は笑わずふんというようにまた前を見た。



























 ノジートが唐突に足を止めた。
 後ろを歩いていた二人も立ち止まると、ノジートはその光球を天井へと近づけた。

「あ……」

 濃い陰影をつけて浮かび上がったのは―――無残にも崩れた、岩壁の残骸。
 無理をすれば通れないことはないだろうが、それにはかなり骨を折ることだろう。
 リードはそれに愚痴のようなものをぼやこうとしたが―――

「―――!」

 弾かれるように振り返り腰元の剣の柄に手を掛ける。
 ノジートは振り向かない。わかっていたのか、それとも。
 紫水晶の瞳はただ、象牙色の瓦礫に向けられる。

「り、リード―――」

「離れるなよ」

 シルアが不安げに名を呼ぶと、リードはじり、とシルアに近寄る。
 彼女はリードが真剣に見据える闇の向こうを見た。



 ざわ、と皮膚が粟立つ感覚―――。



「……妖魔……!?」

 憎悪、悲哀、殺気、そして飢えという名の欲望―――
 今までに何度か肌で感じてきたそれを、シルアはまざまざと覚えている。
 唇がきゅっと締められ、頼りなげに目で追うのは隣に居る少年の横顔。

 そこではっとした。

(これじゃ、いけない)

 護ってもらうばかりの自分を悔いたのはいつだったか。
 せめて彼の足を引っ張らないように……その精一杯を、今、試される。

 ごく、と息を呑んだ。
 そして、固く結んだ唇を解き、改めて向こうの存在を睨みつけた。
 心臓の鼓動は言うまでもなく早鐘を打つようだ。

 口をなるべく早く動かす。
 小声で紡がれる呪にリードは一瞬反応したが、視線は目の前から逸らさなかった。



 ざわり。

 向こうの闇が、微かに蠢いた気がしてリードは柄を握る手に力をこめた。



 それは気のせいでは無いようだった。

 ざわ、ざわり……

 不快な擬音が絶えず頭の中で繰り返され、良く見ると壁伝いに闇がまるで液体のように侵食を始めている―――!



「なっ!?」



 どばあ、というように液状の大量の闇は形も無くそのまま彼らに覆いかぶさろうとする!

「≪レイ・アロー≫!」

 シルアが放った光の矢も、瞬く間に飲み込まれていく。
 リードはそれを見届け剣を抜くも、形の無いものにどう切りかかってよいものか迷いを見せた。

 迷いが一瞬であるように、闇が彼らと距離を置いていたのも一瞬だった。

 真っ黒、いや、闇そのものが二人の視界一杯に広がる―――



「汝総てを以って拒否せよ―――≪ツェル・ヴェネル≫」



 こともないといった口調の青年の声が岩壁に響いた。

 その瞬間、目の前の闇はリードとシルアの目の前で見えない壁に弾かれる様に攻撃を妨げられた。
 未練がましくそれがずるずると地面に流れ落ちる様は見ていて心地の良いものではなかった。

「ノジートさん―――」

 シルアが振り返って安堵の表情を見せる。
 だがノジートはこちらを振り向いては居なかった。






 妖魔が、月の護る道に居る。
 それは、どういうことか。






 この道はシゼーヌの女王が、万が一のことを考え脱出路として作り上げたものだ。
 だが、ただの岩の通路として心許無い。

 そこで、月の力を借りることにしたのだ。

 満月の夜、この通路の入り口は必ず満月の光を浴びる。
 その時に例の紋様は紫に浮かび上がり、女王の名の元にその道を解放する。
 光を浴びることによって月の力を通路全体に満たし、崩壊や劣化を防ぐと共に妖魔等といった悪しきものの侵入を妨げることも果たしていた。

 だが今、自分たちを襲ってきたのは―――



「―――最早、抜け殻なのか」



 あの、眩くも静かな光は。



「おい、これどうするんだよ!」

 リードが耐え切れなくなったのか、ノジートに食って掛かる。
 ノジートは気だるげに振り向いた。



「其は天なり―――≪エーヌ≫」



 どこからともなく生まれる純白の光は、闇を喰らった。
























「すっげ……」

 リードが一瞬として消えた妖魔のたゆたっていた場所を眺めた。
 シルアも驚きを隠せず、リードの見る場所とノジートの後姿を交互に見た。

 ノジートはまた瓦礫の方を向いていた。
 そしてぶつぶつと何かが聞こえたかと思うと、その瓦礫らは全て砂と化した。

「!」

 だが、その砂はやはり辺りに煙って飛び散ることは無い。
 急に開けた向こうには、幾筋かの木の根があった。
 おそらく崩れたところにむき出しになった土から伸びてきたのだろう。
 だが水気が無いのは当たり前で、先端の方は干からびているようだった。

「ここから先は崩れやすくなっている。慎重に気を付けて進め」

「は、はい」

「それから、妖魔の相手は面倒だ。走るぞ」

「えっ!?」

「おい、慎重にって―――」

 矛盾したことを言うなり走り出すノジートに、リードとシルアは遅れをとる。
 歩いて彼と離れることに不安が残るのは事実だった。









 思い出したように飛び掛ってくる妖魔を、リードは夢中でなぎ払いながら走る。
 効かないと知りつつも怯んだそれらの隙を、シルアの光の矢が貫く。
 ノジートは呪も唱えず無作為に発する光で立ちはだかる闇を一掃した。



 リードは途中何度も振り返り、シルアの姿を確かめながら進んだ。