夜明けの少し前に

第三十話





 ソア=ルーン―――“月の逢瀬”。



 それは、世界の北にある、小さな小さな島の名前。

 その名前が出てくるのは伝説や神話―――必ずしも万人の知が有する名前ではない。



 昨日は見えず、今日も姿あらず、明日は何処へか。
 わかっているのは、その島は中央大陸北部のテードルに接する北の海の遥か向こうに在るということ。
 ただ、その影は普段は全く見えない。
 ある日突然、不意にそれは姿を海の朝靄の中に浮かび上がらせるという。
 それは三日後か、四十年後か、それよりも後のことなのか―――誰にもわからない。






 だが、何故其処が“月の逢瀬”と呼ばれるかは結局わからずじまいだった。

























































「おはよう」

 食堂にやってきた人物に、シルアは挨拶を告げた。
 透明な陽光が、無機質なガラスの向こうから真っ直ぐに差し込んでくる。

「おはよ」

 ふあ、と眠たげに、そしてその光に眩しげに目を擦りながらあくびをする少年―――リードも挨拶をした。
 シルアが眠れなかったのかと聞くと、リードはあまりはっきりとしない返事をした。

 食堂には今、食卓についているのは二人だけだった。
 給仕係の使用人が何人か壁際などに配置しているだけで、後はごく物静かな白の空間であった。
 料理や香茶から出る湯気が、陽光の中をゆるやかに立ち昇っていく。

「ノジートさんは?」

 シルアが尋ねると、リードは興味なさ気に答える。

「さあ。まだ寝てるんだろ」

「そう……」

 朝食を共にするのは今ので二度目になるはずである。
 昨日は一番早くこの食堂にいたというのに、今日はそうではないのが少し不思議だった。

 使用人が椅子を引く。リードは慣れないので少しどぎまぎしながらもそこに座る。
 だが座った後はいつもの彼であった。眠たげではあるが。

「冷める前に食べたら駄目か……?」

 食卓に並ぶやや菜食寄りの料理たちを眺めながらリードは言った。
 確かにノジートがいつ来るかはわからない、とシルアも料理たちを眺める。

 と、そこで当人がやっと現れた。

 扉が閉まる音を聞きながら、黒髪の麗人はやや不機嫌そうな表情で席に着いた。
 その表情ですら、その顔立ちには妙な迫力をもって映えてしまう。
 シルアが多少怯えながら挨拶をしてみる。

「お、おはようございます……」

「ああ」

 だが、その人物―――ノジートはそれも全く意に介さず不機嫌なまま無愛想な挨拶を返す。
 リードが彼女の脇でむっとしているのは言うまでも無い。

 余り突っ込んだことも聞けないまま、朝食の時間は過ぎた。

























































「これからシュザ山脈を越えていく」



 朝食を終え、準備を済ましたリードとシルアを城の大広間で迎えたノジートはそう憮然と言い放った。

「シュザ山脈?」

 リードが眉をしかめてその名前を繰り返す。
 シルアは荷物から地図をごそごそと取り出し、広げたところをリードも覗き込む。

『…………』

 中央大陸、アノール大陸、クレセン大陸、その他諸島―――
 中央大陸を南北に二分するように走る山脈があるのを二人は確認した。

「……この、中央に走る山脈ですよね」

「そうだ」

「こっちの国を通ったりしないのか?」

 山脈の南端は、一つの国を海との間に挟んでいた。

「どれだけ日がかかると思っている?」

「…………」

「その、道はちゃんとあるんですか?」

「シゼーヌの何代目かの女王が昔作った通路があるらしい」

「らしいって何だよ……」

 一通り問答を終えると、二人は顔を見合わせ、シルアは地図をしまう。
 これ以上、相手の機嫌を悪化させるのもまずいと彼らなりに理解したらしい。

 ノジートはそれを見て、ふ、と息をつくとさっと身を翻し、城を出る方向へとすたすたと歩いていく。

「なんかあったのか……?」

「……?」

 シルアがおろおろとしながら歩き出したので、リードもしぶしぶ歩き出す。



 やっぱり、訳が解らない奴じゃないか―――

 今更ながら、改めて既に遠くなっている人物の後姿に不安を覚えたリードだった。