夜明けの少し前に 第二十九話 流石に昼時というべきか、物静かなシゼーヌの通りには朝よりは人が増えていた。 始終ぶつかるほどでは無いが、ちゃんと前を向いて歩かなければならない程度の混み具合の中をリードとシルアは歩いていた。 そうしている間にも、あちらこちらから良い香りが漂ってくる。 パンの香ばしい、シチューの食欲をそそる、肉の焼けるそれが絶えず二人の鼻の辺りを通り過ぎていった。 「な、どこに入る?」 「……え?」 リードが今にも主張の音を出しそうな腹を押さえながらそう聞く。 だが帰ってきたのは一瞬間を置いた呆けたような返事。 リードは訝しげにそちらを見た。良い香りを味わっていたのは彼だけだったらしい。 「あ、ごめんなさい、その、聞いてなくて」 「…………」 慌てながら申し訳なさそうに言うシルア。 リードが少し拗ねたような表情になるのを見て、シルアは殊更慌てる。 「えっと……あ、お昼。どこに―――」 「あのさ」 「……?」 リードがぽつりとそう遮った。 「……今考えてることは、俺には話せない?」 今度はどこか寂しげだった。 シルアはその言葉にまた気を沈ませる。 不安だ。出来れば打ち明けてしまいたい。だけれど、こんな何の確証も無いことを簡単に伝えていいものだろうか…… 「…………」 でも言わなければ、彼はまた怒るのかもしれない。寂しがるのかもしれない――― 「あのさ」 また、同じ言葉が繰り返された。 シルアはどきりとして彼の言葉に耳を傾ける。 「無理は、しなくていいから」 「え」 「色々……考えてるんだろ? だったら、それが終わるまではいいから」 「あ……違うの、えっと」 「あー、ごめん、喧嘩始めたのも俺なのに」 そう言って彼はくしゃくしゃと髪をかき回してから、ばっと俯きがちになっていた顔を上げた。 そしておもむろに立ち止まり、つられて止まったシルアにしっかりと向き直って言った。 明るい緑が、いつものように真っ直ぐにこちらに向けられていた。 「えっとな。どうしても辛かったら、俺も力になるから。だから、あー」 「―――……」 真剣な表情になったかと思えば、次には苦悩に首を傾げる。 何となく言いたいことはわかる。 でも、どう答えれば……? 「あ……そうだ」 突然表情を切り替えて、彼はポケットの内をごそごそとし始めた。 そして出てきたのは――― 「あ……」 透明、かと思えば半透明。 銀の繊細な鎖に通された小さな長方形の薄い石が彼の指の間でちらちらと揺れる。 「……あの時は、見せられなくてごめん」 「ううん……」 それは、マリナから貰ったものとお揃いのペンダント。 ただ違うのは、その石が帯びる色が彼のは緑だということ。 シルアはやはりその神秘的な輝きに見入った。 どうして?と聞く前に彼は話し始めた。 「俺達は、仲間だよな」 「…………」 「―――マリナさんがどういう意図で渡したのかはわからないけど…… ……お互いの辛いものは仲間同士で背負っていいと思うんだ」 シルアは、その石から彼の緑の瞳を見た。 彼はちらちらと揺れる石を見つめながら続ける。 「俺達は種族が違うけど、共有できるものがある。これは、その“印”」 「“印”?」 「うん」 「…………」 シルアは問い返した後、自分も胸元からそれを服の上に出した。 薄く青く光る石を、彼の持つ緑を帯びたそれと重なるように見た。 「……そう、ね。―――“印”……」 シルアはそう呟いて、微笑んだ。 「ありがとう」 自然と出た言葉は、短くて暖かい。 不意に零れた笑顔にリードは不覚にも見とれてしまう――― ぐう。 「あ」 そして間もなく思い出した空腹。 リードが慌てて腹に手をやるが、時既に遅し。 シルアは一瞬呆気に取られていたが、やがてくすくすと笑い出してしまった。 「そーだよ、昼飯……」 決まり悪そうに顔を少し赤くしながらリードはペンダントをポケットにしまう。 そして辺りを見回し、適当な飲食店の一つに目をつけて指差す。 「―――よし、あそこ! あの店な!」 「え、ええ」 だがシルアは笑いを止めようと必死で、生返事をしながら口元を押さえている。 リードはそれに構わず店に向かおうとしたが、やっぱり引き返して、 「ほら、早く行かないと混むだろっ」 後からついてこないシルアの手を掴むと、ぐいぐいと照れ隠しなのか引っ張っていく。 お互いの体温が、そこから共有されていく。彼のそれは照れているのか怒っているのか、自分よりも心なしか暖かいようだ。 「―――……」 急に引かれもつれそうな足を何とか動かしながら、シルアはふとルミドの大通りを思い出した。 あの頃を思えば、今の自分達は色々と変わっていると感じられる。 あの頃は喧嘩どうこうの前に、自らの不安を打ち明けようとも考えなかった。 仲良くしようとは思っても、まだ何か妙な意地のようなものがどこかに少しだけあった。 ―――じゃあ、今は? シルアは未だぼうっとしながら手を引かれていたので、リードも流石に変に思ったのか少しだけ足を止めた。 くる、と振り返って目に入るのは、森の色。 でも、その色は嫌いじゃない―――きっと。 「……もう笑ってないよな」 その少年が拗ねた顔でそう言ったので、シルアはやはりくすりと少しだけ笑った。 胸元で、青く光る石が陽光を受けて煌いていた。 もう一つだけ、不安があります。 朝と夜の祈り。 欠かさずこなすその日課が、最近、ほんの少しだけ苦痛になってきました。 その作業が嫌なのではないのです。 ただ、確信が得られなくなってきたのです。 何故かというと、私は月の光を求める神の真意がわからなくなってきたのです。 魔族や妖魔たちが狙い正体もわからないそれを持ち帰るのは、何故なのか。 神に疑いを持つことは愚か以上にあってはならない―――そうは思っても、この小さな染みはいつの間にか私の心にしっかりとついていました。 巫女になるために。 ただひたすら、それを一途に信じて目指していればいいと思っていました。 このことは、母にも話せません。 悲しむ顔をさせたくありません。 ただ、私は―――知る、ということを望みました。 そして今も、知りたいのです。色々なことを。 あの森の色も、いつか自分に何かを教えてくれるのでしょうか――― |