夜明けの少し前に

第二十八話





 顔を見たのは初めてだった。
 その抑えられても滲む光を肌で感じたのは初めてだった。
 よく通る声を聞いたのも、初めてだった。









 静かに、彼は去った。

 何も、残さずに。
 哀れみすら、残さずに。






 どうして。

 いつの間にか、彼の心に入り込んでいた蒼。
 取るに足らぬ、魔力も何もかもがその辺りにいる人のもの。



 遠い遠い距離を越えて通じ合えると思っていた。
 水晶を通して伝わる光と、言葉の一歩手前の“思い”達。
 それを共有しているのは、彼と自分だけ。



「……エイジス……」

 その名を呼ぶのも、自分だけ。
 そう思っていたのに。






 この身が厭わしかった。
 いや、身も心も纏めて滅びてしまえばいいと願った。
 だが今の自分にはそれを成し遂げる力すら失ってしまった。

 心を殺したくても出来ない。
 憎んで、それでも根づくような、愛しさのような、何かがそれを留めた。
 それは、自分が“女”である故なのか。
 その美を誇示しながらも内包することすら謹んで来た故なのか。






 シゼーヌの血は、絶えた。
 いや、続いて許されるはずがないのだ。



 月の光を含む血を迎え入れるという名目で、彼を手に入れようと目論む私の血など―――

























































 空気が静止しているような、古びた紙や塵の匂いがする部屋。
 天井は高く、ドーム上で天窓から差し込む光はその高さに放射状に散って木の丸い大きな机を照らした。

 どさ、という重い音がしてそちらを見る。
 隣の席に、分厚い本を数冊抱えたこげ茶の髪の少年が来ていた。

「……見つかるといいな」

「ええ」

 彼はそれだけ小声で言うと、椅子に座って一番上の本を手にとって開いた。
 明るい緑の瞳が、目次らしきページを追っている。

 シルアはそれを見て、自分もいそいそと本に視線を戻した。

『―――月は、太陽の光を受けて輝く球体である』

 それは、月に関する報告書のようなものだった。

『我らが住まうこのノルンの星を一定の周期で巡っており、その時の位置によって太陽から受ける光の位置が変わる。それ故、満ち欠けという現象が起きる。時には……』

 シルアはそこまで読んで、やめた。
 と思ったが、他に当てがあるわけでもなく、再び半ば滑るように目を動かす。

「…………」

 目線が、ある一文を見つけ辿っていく。

『……月食は数十年に一度繰り返されるが、極稀に自然的現象とは思えぬ場合が起こる』

 白く細い指が、そ、とその先をなぞっていく。

『極稀と先述したが、明確に記録に残っているのはただ一度きりである。
141年前―――中天に浮かぶ満月は突如その端から闇に蝕まれ始めた。
これと同時に、アリミドナール王国を中心とした広範囲に及んで全ての植物の花という花がその一晩で咲き狂った。この日はアリミドナール王国における先王の第一子の出生日であったが、第一子は死産であったと言う。他には妖魔の類が2,3日白昼にまで及ぶほど活発になり、一度は収まったもののそれ以来妖魔の活動は年々顕著なものになってきている』

 どくん。
 心臓が、大きく脈打った。

 この月食の話は聞いたことがあった。
 イシュフェルードでは月は神聖視されており、しっかりと記録は残っている。

 月食。アリミドナール。死産―――月の光は失われた―――幻の……

「……“皇子”……?」

 ふと呟いて、それに自分ではっとするシルア。
 リードもそれが聞こえたのか、ちらりとこちらを見てくる。

「何か見つかったのか?」

「あ……ううん」

―――まさか。そんなこと、在り得るはずが……

「なんでもな―――……」

 シルアは反射的に口をつぐんだ。
 見ると、リードの表情にもやや緊張が見える。

 こつ、こつ。

 その足音は、わざとこの空間に高く響かせている感があった。
 足音の主は、既にこの机の反対側に立っていた。



「―――探しものは見つかったか?」



 陽光に艶やかな黒髪が揺れて煌いた。
 人のものとは思えぬ美貌に微笑を称え、その人物はそう二人に問うた。

「……っ、いえ……まだ」

 ぱた、という音は反射的に閉じていた本のページの重み。

 気まずさが喉を凍らせた。
 シルアはそれだけ答えたが、目の前の人物を直視できずに居た。
 一瞬彷徨った視線は肩から前に流れ落ちる彼の一房の黒髪の先端に止まった。そして動かせない。

―――後ろめたいのか。何故。

「そうか。アリミドナールには、明日旅立ちたい。時間が必要なら今のうちに言ってくれ」

「……わかりました」

 そう答えたとき、何かに解放されたかのようにやっと視線を机の上の本たちに移すことができた。



 まさか、そんなことは。

 これは全てが仮定であり、何一つ確証は無い。

 それでも、一度よぎった考えは脳裏にこびりついて離れようとしない―――



「少し休憩をとったらどうだ。もう昼に近い」

 人物―――ノジートは淡々とした労いの言葉をかけた。

「……シルア」

 リードが、俯いたままの彼女に声を掛けた。
 名前を呼んだだけだが、それは休憩を促す心遣いも入っていた。

 笑顔を作ることは、初めてだったのかもしれない。

























































 ノジートは、彼らを見送った後に山積みにされたままの本を見やった。
 そしてあの少女が先程まで開いていたらしい本を手に取った。
 ぱらぱらとめくってゆき、少しだけ癖が残ったように自然と開いたページがあった。

「…………」

 紫水晶の瞳が特に興味もなさそうにその文字の羅列を追う。
 そして、ぱたむとそれを閉じた。
 ふ、と口元に苦笑に近い笑みが浮かぶ。

(聡いな)

 だが、その仮定を決定付けてやる気は無論、無い。
 確証を与えたところで彼女が出来ることは一つしか無い。
 そう、一つしか。

―――例え目的は違っても、あの少年がごねようとも、向かう場所は同じだ。



 ノジートは側の椅子を引いてそこに静かに座った。
 少し、落ち着いた心地になる。

 が、それも束の間のこと。



 彼は今居るテーブルを中心に放射状に居並ぶ本棚の、丁度正面の奥の暗がりを見据えた。
 本来、彼以外の存在が許されていないはずの空間に、一人の人物が浮かび上がってくる。

 硬い足音が、思い出したように本棚の間から響いてきた。



「―――初めまして、でしょうか?」



 微笑は絶えず、優雅な曲線の元に。
 明るい茶の真っ直ぐな長髪、そして覗く深い緋色。
 貴族のようなブラウスやベストを着こなす、身のこなしも優雅な男がそこに居た。

 ノジートはすいっと目を細めた。

「そういうことにしておこう」

「では、そうしましょう」

 丁寧な口調で、物腰も柔らかに応える。
 その動作にノジートは苛立った。

 男は本棚の間から出て、陽光の差すテーブルの脇に立った。

「……顔を見るのは大分後だと思っていたが?」

 ノジートが不機嫌さを隠し切れずそう言った。
 男はそれに、緋色を笑みに細めて答えた。

「予定変更、です。中々思うように事が運ばないので」

「……予定……」

「ええ」

「ロクなものではないな」

「そうでしょうか?」

 男はわざと少し驚いてみせたように言った。
 無論、微笑は一片とも崩れない。

「この世界に生きる我々にも、“それ”を見る権利はあるのですよ」

「見るのは勝手にしろ。私はやりたいようにやる」

「では、我々も」

 しれっとそう言った男は、天窓から差し込む陽光を見上げ目を細めた。
 ノジートはその余り気分の良くない光景を視界に入れぬよう山積みの本達に視線を移した。

「……女王は気付いているぞ」

 ぼそりと、しかし聞こえるように言った。
 男はそれにも微笑を崩さず、またノジートの方を向いた。

「気付いたところで、何か?」

「…………」

「知の女王に許されるのは、“知る”ことだけです。それ以外のことに呆けるなど、以ての外でしょう―――それは貴方もよくご存知の筈ですが」

「何故だ」

不機嫌極まりないノジートの言葉に、男は、くつくつと笑いを零した。

「貴方も罪な方だ、ということですよ」

「黙れ」

 この男はどこまで知っているのか―――それを考えるだけでも苛立ちは募る。

「貴方がこれからすることは、全ての望みを捨てることですから」

「―――お前は何をしに来た」

「ほんのご挨拶を」

「なら済んだ。失せろ」

「酷い方だ」

 ふ、と笑った後に男は姿を消した。
 そこに居たはずなのに、まるでそれが嘘だったかのように忽然と存在は消えていた。

 のどやかな陽の光が、僅かに漂う塵をきらきらと輝かせていた。