夜明けの少し前に

第二十七話





「…………」

 笑いを堪えるのは、ここ最近の癖になってしまったようだ。



 その笑いとは、最早苦笑を通り越して完全に面白がるそれに変わっていた。
 いや、ちょっとした―――それでもって少しばかりひねくれた―――大人がこの光景を見たらこうならずにはいられないんじゃないだろうか。



 食器の擦れる音が響く、朝日の差し込む城の客用の食堂。
 そこで食事をしているのは、三人。

 一人は長い黒髪を垂らした、美麗な顔立ちの青年。
 これで憂い顔の一つでもしていればそれこそ画になるのだが、今は笑いを噛み殺し食事を円滑に進めるために必死だった。

 そしてもう一人、こちらも黒髪の愛らしい少女。
 紺の大きな瞳はやや伏せがちに、どこか落ち着かないように食事を続ける。

 最後に、こげ茶の髪の少年。
 三人とも落ち着きがないと言えばないのだが、特に彼がそれを代表しているように思える。
 常にそわそわとしていて、それを紛らわすために食事を無理やり進める―――だが、その時にも手が食卓の上を泳いだりしていて、何かもう見るに耐えない。

 食事が終わってほっとしたのは、どうも黒髪の青年だけのようだった。













































 図書館の閲覧は、既に許可が下りていた。
 アリミドナールに行ってからかとも思っていたが、女王は今日から見てもいいと言った。
 必ず課題をやり遂げると踏んでいるのだろう―――その保証がどこに、誰にあるのかはわからないが。



「さて、私は女王陛下に話がある。先にお前達で行って来い」

 別に嘘ではない、これは事実だ。
 ノジートはなるべく無表情を装いつつ、すたすたと執務室へと向かった。









「…………」

「…………」

 行っちゃった、という表情で見送るシルアと、いよいよ追い詰められたような顔をするリード。
 やがてシルアも気まずげに視線を落として、食堂の扉の前に二人で黙って佇んでいた。



(あー、何て言えばいいんだよ!?)

 ノジートに焚き付けられるように様々に言われた昨夜。
 その時はただ、この少女に会って話をしたいと思った。
―――だが実際、何をどうやって切り出すのか、全く考えていなかったのだ。

 ハル―――従兄弟のハルディンとも、喧嘩をして謝ろうと思ったことがあった。
 その時も多少抵抗はあったが、素直に謝ることは出来た。
 ごめん、の一言で、親友は笑ってくれた。

 でも今は、違う。
 ごめん、だけじゃだめだ。

(俺が納得できないんだ)

 もっと、何かを言いたい、伝えたい。
 だけどそれがうまく形になってくれなくて、この頭は混乱を繰り返す。
 言いたいことは皆、似たような色をしているのに。

「―――あ、あのね、リード」

「!」

 そうやってもやもやとしているうちに、シルアの方から話が始まってしまう。
 何故かしまった、と心の内で呟くリード。
 そして妙な意地が、ここで少しばかり功を奏した。

「昨夜は、その―――」

「ごめん!!」

「えっ?」

 シルアの言葉を遮ったリードの謝罪の言葉。
 シルアはそれにぱちくりと驚いていたが、リード自身も驚いていた。

 何となく、男として先に謝られてしまうのは癪だった。
 それに、やはり“ごめん”で始めてしまった自分にも呆れる。

「……っあ、えっとな」

「……ええ」

 シルアもその勢いに負けたのか、リードのたどたどしい言葉を聞く姿勢になった。
 リードは情けないとは思いつつも息を吸って、吐いて、話し始めた。

「昨夜は、ごめん……その、話を聞いてやれなくて。
話したい事、他にあったのに、俺、全然聞いてなくて」

「でも、リード」

 シルアがその言葉に少し反発を見せる。
 と、リードはそれも遮った。

「それと! その『でも』ってやつ。なるべく使わない方が……いいと思う」

 もしかしたら自分の苛立ちは、そこにも原因があったかもしれない。
 リードはそう思いながら、ふう、と息をつく。

 待って、まだ。まだ、何かがある気がするんだ。

「……ごめんなさい」

「いやっ、謝らなくていいし」

ちょっと偉そうだったか、と後悔するリード。

「で……あ。えっと、……これから気を付けるわ」

 早速使おうとして気付いたのか、シルアは言葉を切った後、そう言った。
 そして今度こそはシルアから話し出す。

「私も、昨夜はごめんなさい。……もっと、落ち着いて心の中で整理してから話せば良かった」

「……うん……」

 俺も、と言おうとも思ったが、ちょっと躊躇った。

「その、今更かもしれないけど……色々と、不安だったの。だから……」

「……俺のところに?」

 思わずそう補ってしまうと、シルアはちょっと赤くなってこく、と頷いた。
 その様子を見てリードはそこはかとなく一種の嬉しさがこみ上げてきていることに気付いた。

―――頼られるって、いいのかもしれない。



 ともかく、これでお互いに謝ることは出来たのだ。
 空気は相変わらずぎこちないけれど、それは決して逃げたくなるようなものではない。



「……図書館、行く?」

「ええ」

 リードが先程よりは緊張の解けた様子でシルアに問う。
 シルアが頷いた時、二人はやっと微笑むことが出来た。



















































「―――女王陛下」



 そこは、謁見の間ではなかった。
 少なくともそこよりはまだ生活味の感じられる、だけどやはり静かな部屋。
 さほど広くはなく、その奥の中心には石造りの大きめの机。
 上には羽ペンやインク、そして何かの文書がびっしりと書かれた質のよい紙たちがやや雑然とあった。

 その声に呼ばれ、部屋の壁に飾ってある濃い緑の森の絵画を眺めて立っていた人物は、金の瞳でそちらを見た。

「ノジート様をお通ししてもよろしいでしょうか」

「―――構わぬ」

 怜悧で厳しい女の声が、老人の畏まった言葉に応えた。
 部屋のドアが開けられたかと思うと、そこに居たのは大分髪も白く薄くなった、そしてこの城には相応しい白のローブを纏った老人がそこに居た。
 その脇から部屋に入ってきたのは、流れる腰ほどまでの黒髪、そして紫水晶のような瞳を持った世にも稀な美貌を持つ青年だった。

 その青年は、目の前の高潔と称えるが相応しい女性に恭しく礼をした。



 老人がドアを静かに閉めると、青年―――ノジートは顔を上げた。
 金の瞳と淡い紫の瞳が、お互いを射抜くように重なった。

 その人物―――シゼーヌの女王サレネリアは、すっと踵を返すと金の波打つ髪を僅かに揺らしながら執務用の机の脇へと歩いていった。
 ノジートはそのまま彼女の後姿を目で追った。

「―――今まで、何をしていた?」

 彼女は机の上の書類たちを一瞥した後、振り返って再びノジートを見た。
 その声は逆らえないような響きが出ていたが、それにも関わらず彼は悠然と微笑んだ。
 これが唯人であったのなら侮辱を超えた振る舞いであろうが、彼にそれは当てはまらない。
 それはその二つとない容姿の所為だけではなかった。

 彼女は珍しく、やや諦めたように言葉を改めた。

「……何故、今になってここを尋ねたのだ」

「―――今だから……とでも言うべきで、御座いますか」

 彼は少し間を置いてからそう言う。

「……どれだけ、行方を追わせたと思っているのだ」

「それは存じませんでした」

 彼女が僅かに怒りを孕ませて言うが、目の前の青年は動じた様子もなくしれっとそう言った。
 金の瞳が彼を捉えるのを止め、またそれは机の上の書類の一部に向けられた。

「シゼーヌの血は、段々と薄れてきている」

 彼女は唐突にそう始めた。

「いや、この世界自体が……変わり始めたのだ」

「変わらないものなど、存在しません」

「我らの世界を見る目を、変えざるを得なくなってきたのだ」

「…………」

 彼も、机の上の書類を遠目に眺めた。



「光と闇が混ざり合う時が、やってきたのだ。
―――相容れぬとされてきた、二者が交わる時が来たのだ」



 やや高くくりぬいた横に長い長方形の窓から、陽光が差し込む。
 それは部屋の主の波打つ金を一層輝くものにしている。

「何故、月の光がこの世に零れたのだ」

 微かな苛立ちが滲む。

「闇を哀れとでも思ったというのか……」

「哀れ……」

 青年の声が繰り返す。
 彼女はそちらを向いた。

「そうだ、奴らは哀れだ。
愛を知らぬ。情を知らぬ。あるのは小ざかしき知と力のみだ」

「…………」

 女王は立て続けに、知らぬ、と続けた。
 薄く美しい唇から滑り出たとしても、それは見下している感を否めない。
 ノジートは金の瞳から視線を逸らした。

 彼女はその動きに、無意識に語気を強めた。

「エイジス、良く聞け」

「すまないが」

 間髪入れずに、声が遮る。

「その名では呼ばないでくれないか」

 口調は既に、敬うそれではなくなっていた。
 彼女は語気を強めたところに言葉を中断されやや肩から力が抜ける。
 別段、彼女は彼に関しては口調や態度―――女王に対するものとして―――は気にしていなかった。
 ただ、やはり気になるものはある。



「―――ノジート」



 だが、遂に聞けない。






「私には、もう世界が視えぬ。
祖が御覧になっておられたこの世界の理が、私には視えないのだ」






「…………」

 彼は、彼女の一人称が謁見の間とでは違うことに気付いている。

「そう―――もう私の力など、凡庸な人の子のそれを軽く凌駕する程度に過ぎない。
闇の子一人と、渡り合えるかどうかもわからぬ」

 その声は、彼女の生で数度あるかないかの無防備な訴えに震えを隠せない。
 彼女にあるまじきことに、その強く、けして逸らされないはずの金の瞳の先は静かに床に落ちた。






「……シゼーヌの血は、私で絶えるだろう」






「―――……」

 彼は、何も言わない。

 これだけさらけ出された彼女を見ていても、彼の口は易々と開きはしなかった。
 聡い彼の耳に届く彼女の言葉は、決して彼の奥には届かない何かを秘めていた。