夜明けの少し前に

第二十六話





「―――どうした」






 夕食後、部屋に戻ったものの酒が飲みたくなり、食堂へと向かおうとしたノジート。
 そこで、自分の部屋の前に佇む黒髪の少女を見つけた。
 近づきながら声を掛けると、彼女はその愛らしい顔をゆっくりと上げた。

「……喧嘩でもしたのか」

 彼女―――シルア=シャロンは、大きな紺の瞳に一杯の涙を溜めていた。
 それがぽろぽろと頬を伝って流れ落ちる様を見ながら、ノジートはやや戸惑っていた。
 シルアは無言で、ノジートを一瞬見上げた後は再び視線を落とした。

 この沈黙をどうすべきか。
 ノジートは柄にもなく動揺しながら、ひとつ提案をすることにした。



「―――散歩でも、するか」

 少し無遠慮かとも思われたが、彼女は意外にも素直に頷いた。













































 シゼーヌの王都ベルラは、夜は殊更静かだった。

 王城については言うまでもなく、厳格な雰囲気の漂うサヴィネイアの城は今夜もシゼーヌの象徴の一つとして闇に白く聳え立つ。
 寒々しいくらいに人気のない廊下を歩きながら、ノジートは言葉を交わしていくことにした。



「…………」

 とは思ったものの、中々思うように言葉が出てこない。
 再び喧嘩をしたのかと聞くのも躊躇われる。先程は出会い頭であったので流れとして聞いてしまったが。

 二人の固い足音が高い天井で跳ね返って響く。
 王城内ということもあってか、警備兵の目はあるものの、ノジートは今はフードを外していた。
 その為、見事な美貌と黒髪が惜しげもなく晒され今そこにあるのだがシルアは気が動転しているのか余り気に留めないようだ。



「―――初めて、喧嘩しました」

 突如、シルアはそう話し出した。
 ノジートはうまい返事も見つからず少女の表情を確かめる。
 嗚咽はとうに収まっていたものの、涙の後はまだ新しい。

「もっと、違うこと言いたかったのに」

「…………」

 ノジートはそこで、何となく思い当たった。
 おそらく、あの少年は最近の鬱憤―――やはりおそらく自分が原因の―――を不本意にも彼女にぶつけてしまったのだろう。
 どういう経緯でかはわからないが。

「……私だって、巫女になりたくてがんばっているんです」

 シルアはノジートの返事が無いのも気にせず続ける。

「だから、きっと色々知っているノジートさんと一緒に旅をすれば色々解っていいと思って……」

「私の名前を出したのか?」

 そこで初めてシルアはきょとんと我に返る手前のような顔をして返事をした。
 愛らしい大きな紺の瞳が、澄んだままこちらを見上げてくる。

「え……―――はい」

 そこでノジートはふっと苦笑じみた笑みを口の端に浮かべる。
 そしてそれはだんだんと一種の衝動に近くなってくる。

(そうか、そういうことか)

 側でまた笑いをこらえているノジートを見て、シルアは先程の自分の言動を思い出してか見る見る顔を赤く染める。

「―――あ! あの! ごめんなさい、さっきから失礼なことばっかり―――」

「いや、いい」

「その、本当に初めて喧嘩したので、えっと」

 その後も、言葉を探しているのか「その、あの」と「えっと」を繰り返して動転している少女の様を見てノジートはとうとう笑いをこらえきれずに吹き出してしまった。
 シルアが口元を手で覆いながらくっくっと笑うノジートを見て、更に顔を真っ赤にしていく。

「そうだな、そういう年だろうな」

「あ……の、ノジートさん……?」

 なにやら一人で頷きだしたノジートを見て、シルアも流石に首を傾げる。まだ頬は赤いままだが。
 そこでシルアはやっと、ノジートがフードを外していることに気付いた。

「……あ、フード」

「ん? ああ、城の中なら差し支えはあるまい」

「はあ……」

 差し支え、というのがシルアにはぼんやりとしか伝わらなかったが、ノジートは別段気にしている様子も無い。
 それよりも、やっと笑いが引いたことに彼自身も安堵していた。まだ笑み自体は口元に残ったままだが。

「まあ……これからは、余りあいつの前で私の名前を出さないことだ」

「え? で、でもそれは……」

 困るのでは、と言おうとしてシルアはノジートの紫の瞳を見る。
 それは楽しむような面白がるような光を称えていて、何となく閉口する。

「どうやら面白がっているのも気の毒になってきたようだ」

 そこでノジートは足を止め、

「そろそろ部屋に戻るぞ。大丈夫だ、私が話をつけてこよう」
「え!?」

「明日、ちゃんと謝っておけ。これからも旅を続けるパートナーなのだからな」

やはり楽しそうにシルアに言う。
 そしてシルアが呆然としているのも気にせず廊下を引き返すものだから、シルアははっとしてそれを追いかけた。






















































「入るぞ」

 と言ってからのノックは、我ながら失礼なものだと思った。
 無遠慮にがちゃりとドアを開けたノジートは、そこにいたこげ茶の髪の少年の驚きようを見てまた吹きだしかける。

「―――っな! なんだよっ!?」

「ちょっとな」

 そういってずかずかと入ると、おそらくシルアと話していた時に使っていたであろう椅子を少し自分の側に引き寄せどっかと座る。
 少年―――リードはその余りの傍若無人さに呆然とするばかり。

 はっとしたリードはベッドから降りて立ち上がる。

「な、何しにきたんだよ……!」

「そういきり立つな。彼女に嫌われるぞ」

「―――む……!」

 ノジートがそう言うなり、リードはぐっと口をつぐんだ。
 その本人も予期していないであろう正直な反応をノジートは楽しんだ。

「喧嘩……いや、違うな。お前、何か彼女に言っただろう」

「…………」

 リードはむすっとしてノジートを睨みつけていたが、そう指摘された途端、目線を逸らした。

「安心しろ、俺は別に何とも思っちゃいないからな」

「何がだよ」

「お前が考えているほど彼女は色々考えちゃいないってことだ」

「……?」

 今度はリードも訳が解らないという様に肩から力を抜く。
 前々から得体の知れない人物だと思っていたが、更に不信感が増した気がしないでもない。
 ノジートがそれすらも楽しんでいるような気がするのは思い過ごしだろうか。

(…………)

 リードも、先程の口論についてはそれはもう落ち込んでいた。
 突然の不躾な訪問に何となく怒ってみたが、今はもうその前の状態に戻りつつある。



―――あれは、傷付いた顔だ。



 知っている。

 彼女は巫女になるために、ちゃんと頑張っているのだと。
 フォルンの会議の夜に交わした言葉と表情は、まだ忘れていない。
 彼女も、いきなり敵対する人物にやすやすと心を開けるような性格ではないだろうと解っていた。それでも、自分と旅をすることを決意したのだ。

 最近自分が苛立っているのも自覚していた。
 マリナと出会った頃から、何となく疎外感があった。
 でもそれは女同士と言う名の結束であるし、これからも共に旅をするという流れではなかったことに何処か安堵していたので気にしないことにしていた。

 だが、次々と現れる、魔族とかいう奴ら。
 そして、今目の前にいる男、そしてこの城の主―――シゼーヌの女王。

 皆、何かを知っている。
 皆、シルアに眼差しを向ける。

 事情がわかっていないと言う点ではシルアも自分も同じ筈。
 でも、自分より遥かに、シルアは彼らの知る何かに深く関わっている。

 悔しくて、寂しくて、……嫉妬を、して。

 彼女を護ると誓った。
 別に深い意味があるわけでもなく、ただそう誓った。
 それが、自分が変われる第一歩じゃないのか。強くなれる過程じゃないのか。
 今自分が此処にいて、知らなかった世界に触れていられるのは何より彼女の信ずる神―――いや、彼女のお陰にしよう―――だから、感謝しているのに。それ、なのに。



「……なあ」

「ん?」

「シルア、泣いてたか……?」

「ああ」

 リードのぽつりとした言葉にノジートは、間を空けずに答えた。
 それは淡白な響きで、寧ろリードはそれに僅かに救われた心地だった。

「…………」

「少し、頭を冷やせ。彼女だって、不安は感じている。それをお前に伝えたかったのだろう」

「……そう、か……」

 だんだんと、意識が澄んでいく。
 安堵に近い感覚が心の中に湧いてきて、それは初めて自分の足元を支えてくれた。

―――シルア。

 心の内で、その名を呼ぶ。
 会いたかった。
 謝りたい、とか、自分も不安だと伝えたい、とか。
 色々想いはあるけれど、まずはそう思った。

 会いたい―――



「謝るのは、もどかしいだろうが……明日にしておけ。もう真夜中だ」

 ノジートは苦笑気味にそう言ってきた。
 リードはもうこの時は、この人物に反論しようという気も起きなかった。寧ろ、それがいい等と素直に賛同していた。

 ノジートが椅子からすっと立ち上がり、

「よく寝ろよ」

とだけ言い残し、部屋から出て行った。