夜明けの少し前に

第二十五話





―――ある文書を、アリミドナールまで届けてまいれ。






 ノジートは、今更だが内心臍を噛んでいた。
 わかっていた、課題が与えられるだろうと言ったのは他でもない自分だ。

(意地の悪い女王め……)

 何も自分の正体を晒しにいく訳ではないが、それでも心地が良いはずが無かった。
 それに―――振り切ってきたものが、また近づくのかと思うと―――……






「―――ノジートさん?」






 途端に、視界に城の食堂の白い壁が入ってきた。

 シレネリア女王は話が終わった後、この城に滞在するように言った。いや、命じたといった方が正しいか。
 今はこうして、王城の広い客用の食堂でたった三人がこうして食事を取っている。
 会話が盛り上がるはずもなく、周りにいる使用人達も至極当然その口を澄ました様に閉じているだけである。



「……どうした?」

 少女の声に、ノジートははっとしていつもの表情を取り戻し、逆に問い返す。
 それは無表情に限りなく近いもの。

 声の方を見れば、そこには自分と同じ黒髪に、深い紺の瞳を持つ少女が心配そうに覗き込んでいるのがわかる。
 ああしまったな、とノジートはそれでも平静を装って残っていたパンを一口ちぎった。

「いえ、長い間手が止まっていたので……」

「シルア、ほっとけって」

 少女が申し訳なさそうに言うのを、横からこげ茶の髪の少年が口を挟む。
 少女はそれに納得いかないらしくしばし口をもごもごさせていたが、やがて煮え切らないというように黙ったまま食事へと戻った。



―――どうすれば、いいのだろう。



 シルアは、匙で掬ったスープを一口すすり、飲み下す。
 実際は、シルアも考えるべきことが沢山あり―――ノジートに対する先程の心配も、自らのそれをごまかすためのような行為に過ぎなかった。勿論、心配する気持ちが皆無な訳ではなかったが。



 月の光を返す。



 返す?



 神は、私に『持ち帰れ』と仰った。
 もし、このまま旅を続けていたら……その望みを叶える事は出来ない。

 そもそも、月の光というものが何なのかすらよく解っていない。
 城を出た時には既に日が暮れかけ、図書館や資料館に向かうには遅すぎたのだ。

 月が、満ちる。
 光に、触れる。
 闇が、求める。

 断片的で抽象的な言葉ばかりをいう女王に、あの時はただ困惑を覚えるばかりだった。
 ソア=ルーン―――“月の逢瀬”というのも、果たしてどういったものなのか。
 シゼーヌに向かう途中に出逢ったあの魔族の言葉から察すれば、それはどこか、つまり場所なのだろうが。

 それと、思い当たることはまだあった。
 その月の光というのは―――このノジートという男性が持っているのではと。
 持っているとまでは行かなくとも、かなり深いところで関わっている。それはリードも確信していると思う。



 旅を続ければ、更に多くのことを知ることが出来る。
 だがそれは、本来の目的を果たすことを妨げる。



 どうすればいい。
 自分は、何を知れば……?



















































 リードは、あてがわれた客室で剣の手入れなどをしていた。
 妖魔を切り裂き、魚人達をなぎ払い、血なまぐさくも振るってきた愛剣。
 そのいつもと変わらぬ刃の輝きに、リードはどこか心落ち着くものを感じてもいた。

 ふとリードは顔を上げ、ドアの方を見る。

「…………」

(誰か、居る)

 少年は鍛えられた鋭い感覚を持ってその気配を捉えた。
 中断していた手の動きを、しばし再開してそのまま刃を布で磨いていたが―――何とも気になって、再びその手を止めた。
 わざと物音を立てて剣を鞘にしまうと、ドアの向こうの気配が揺らぐのが感じられる。
 リードはそれに敵ではないという確信を抱き、そのままドアへ向かった。

 きぃ。

 ドアを開けると、そこには一人の黒髪の美少女が。
 言うまでも無い、今も共に旅をしているシルアという少女である。

「あ……」

 シルアはドアが向こうから開いたことに紺の瞳をしばたいて驚いていたが、やがてその戸惑いも振り払って話し出した。

「その、……少し、話がしたいの」

 上目遣いで、申し訳なさそうに、どこか照れているようにそう頼まれては最近機嫌の悪いリードも邪険には出来ない。

「……いいけど」

 それでも少し突き放したような言い方になってしまったことに、やっぱり後悔した。










































「……剣の手入れ?」

「ん、一応」

 シルアが床に放られたリードの剣と布を見下ろして問う。
 リードはそれに短く答えながら布を片付け剣をベッドの枕元に置いた。

 そしてそのままベッドに座り、そこではっとする。
 リードは部屋の備え付けの机の下へ行き、そこにある椅子を引っ張ってベッド脇まで持ってきた。
 座るように促すと、シルアは「ありがとう」と言ってやや浅めにそれに座った。
 自分もベッドに座りなおす。

 そこで、何ともいえない沈黙。

「……話って?」

 リードが切り出す。
 シルアはそれにはっとして、口を開いた。

「あ、えっと……ね。リードは」

「うん」

 そこでシルアはきゅっと拳を膝の上に作り、一旦間を置いて問うた。



「このまま、女王様の言うとおりにしても大丈夫だと思う?」



「―――え?」

 リードは間の抜けた返事をしてしまった。

 何故って、それは今までずっと自分の懸念していたことだったからだ。
 いや、女王の言葉というより、あのノジートとかいう得体の知れない男についていくのかということの意味合いが強いが。
 ずっとそれで自分は機嫌を損ねてきたというのに、彼女は無理やり押し通してここまで来たんじゃないか―――。

 シルアはその返事で自分の言ったことが唐突過ぎたのかと思ったのか、慌てながら続ける。

「あ、違うの、えっと、女王様が嘘をついているとかじゃなくって。ただ、このままじゃ神託の言葉に従えなくなってくるんじゃ、って……」

「あー……」



 この少女に降りた神託。

―――フォルンを継ぐ少年と出会い、共に月の光を持ち帰れ―――

 でも女王の言葉は違った。

―――月の光を返す。



「月の光を返してしまったら、持ち帰ることは出来ないわ……」

 沈んだ表情を見せるシルア。
 一方リードはどこか興味なさ気に、

「その前にさ、そもそも俺たちは月の光について何も知らないだろ?
明日、図書館で色々調べてからもう一度考えようぜ」

自分でも一応無難だと思う案を出してみる。それから思いついたことを口に出してみた。

「それに目的が違うなら、アリミドナールに行った後は俺たちで自由に行動を取ればいいじゃないか」

「で、でも」

 シルアはそれに渋る様子を見せた。
 また、リードの苛立ちが募る。

「……あのさ、巫女になるために今こうして旅してるんだろ? 流されて目的ないがしろにしたら意味ないって」

「それはわかってるわ。でも、そうじゃなくて」

 いつまでも煮え切らないシルアの言動。
 リードは更に苛立ちを増し、だんだんとそれが抑えられなくなってくる。
 立ち上がってシルアを見下ろすように言った。

「じゃあなんだよ! シルアはあのノジートと旅を続けたいって訳か!?」

 そこにノジートの名前が出てきて、シルアも負けじと立ち上がって言葉を返す。

「―――違うわ! だけどノジートさんは図書館の閲覧を女王様にかけあってくれたし、他にも色々知っていそうだから……!」

「だから! それでアリミドナールまで届け物した後は別れれば良いって言っただろ!
あっちも図書館を見たがっていたんだ、それに声を掛けてきたのはあっちだ!」

「でももしノジートさんが―――」

 そこでシルアの言葉を遮ってリードが激昂する。






「聞きたいことがあるんなら今から聞いてこいよ! あいつに!
本当にイシュフェルードの巫女になりたいんならまずそっちが先だろ!!」






「……!」

 シルアの表情が、急に色を変えた。
 それは、哀しみと……






(あ……)

 リードはそれを見て、自分の言葉がどのようにして彼女に届いたかを知った。






 言い合いは、そこで途切れた。
 シルアは何も言わない。リードは何も言えない。
 重い、というのもまた違う沈黙が、急激に心に湧いてきた罪悪感と共にリードの肩にのしかかった。



 シルアは俯いていたが―――そのまま、ぱっと身を翻して早足でドアへと向かい、そのドアを満足に閉めないまま廊下の方へと去ってしまった。