夜明けの少し前に 第十五話 「うおわっ!?」 そんな声が上がったかと思ったら、次には階段からぱっと出てきてこちらに駆け寄ってくる影。 それはリードだった。 「シルア、マリナさん! これ何なんだ!?」 先程の驚きが残ったままの顔で問うてくるリードの後ろには――― 「リード君、後ろ! 剣抜きなさい!」 マリナが焦ってまた小剣を構えると、リードは後ろを振り返り立ち止まらざるを得なくなる。 「やべ、連れてきちゃったか」 すっと一応携えてきた剣を抜いて、ぬらぬらと不気味に月光を跳ね返す鱗を持ったそれらと向き合う。 マリナの放つ小剣にたじろいだ他の魚人をリードは身軽に鮮やかに切ってゆく。 と、はぐれたのか自らそうしたのか、一匹の魚人がシルアを見つけて彼女の方へとぺたぺたと足を進めて来た。 シルアは後ずさりながらぷつぷつと呪文を唱え始めた。 里では使うことの無かった、儀礼的に教えてもらった攻撃呪文の一つ。 「≪レイ・ヴォルト≫!」 彼女の手のひらから生まれた、幾筋かの雷光が魚人に突き刺さる! びぢぃっ! しゅう、と煙が上がって魚人はばたりと倒れこむが、完全に命は落としていないらしく、ぴたぴたともがいて起き上がろうとする。 シルアはその気持ち悪い光景に怯えながら呪文をまた唱えようとして――― 銀光が、しゅっと魚人の喉に突き立った。 ぐえ、と気味の悪い声を出して魚人は絶命する。 シルアがその小剣を見て、マリナのほうを見る。 彼女は一瞬こちらを向いて微笑んだ後、ショートソードで魚人と再びやりあっていた。 リードも負けじと剣をふるって、次々と沸いてくる魚人をなぎ払っている。 いつの間にか甲板は騒ぎに気付いた船夫や傭兵である客達も出ていて、魚人たちと戦っていた。 シルアは理解した。 なまじ技術を持っていても、それを生かすのは技術自身ではないのだと。 以前に妖魔を倒した時も、リードの手が無ければどうにもならなかっただろう。 今も、マリナの止めの一撃が無ければ復活した魚人を対処仕切れなかったかもしれない。 そして、あのフォルンの少年の戦う様を見て、彼はすごい、と単純に思った。 この気味の悪い化け物たちを相手に、同い年の少年は臆せずに剣を振るう。 その身軽で自由な身体の動きは、自分には無いもの。 少し、女に生まれたことが悔やまれた。 いや、それではマリナに失礼だ。 彼女も後から出てきた屈強な戦士たちに負けず小剣を放ち続ける。 狙いを外さないその銀光。そのために彼女は懸命な努力もあったはずだ。 自分だって努力をしなかったわけではない。 だがその魔術に関しては“巫女”になるというものの一環であり、中には儀礼的、儀式的なものも多く――― 実用的、と言える魔術は明かりを出すといったような生活の一部のもの。 実戦など程遠いその生活を自分は送ってきた。 ―――今生きてる命を無理やり奪うだなんて、考えもしなかった。 強く。 強くあれたら…… 「シルア!!」 はっと、シルアは名を呼ばれ我に返る。 すぐ後ろに気配を感じ、見れば目の前には魚人の姿が――― 「きゃ……!」 ざしゅ! 肉の断たれる音。そして、血の飛沫が魚人の背から吹き上がる。 どさ、と倒れた魚人の向こうには、返り血を浴びた少年の姿が。 表情には焦りと、滲んできた疲れがある。 妖魔と戦った時とは違う、生々しい殺戮の―――…… 「……大丈夫か?」 「あ……」 シルアは一瞬、怯えた。 旅が始まってから常に一緒に過ごしてきた真っ直ぐな瞳の少年は、その服や肌を血で濡らしている。 初めて見たその様を見るシルアは、傍目から見ても戸惑い怯えていた。 リードもそれを感じ、次にはぱっと身を翻し――― 「―――気を付けろよ、まだ敵は居るんだ」 それは無表情で淡々としていて、やはり普段の彼の様からは想像のできないもので。 剣を振ってぴっと血を振り捨てる彼の後姿をシルアは呆然として見る。 彼とて、あの里で平和ばかりに過ごしてきたわけではなかった。 父アラードはやはり厳しい人で、修行の際は手を抜くことはまず有り得なかった。 幼い彼を平気で森に放り出し、そのお陰で自分は一匹の若い狼と剣で戦うこととなった。 生き残った自分を見て、父は満足したような表情をやっと見せた。 今こそ幾分柔和に接してくれるものの、それは今の彼の満足いく技術があるお陰。 従兄弟ハルディンも、時には修行において敵にとなったものだった。 友であり、従兄弟であり、戦友と呼ぶにも相応しい彼だった。 その明るい緑の瞳に映るのは、闇の海から次から次へと甲板に上がってくる魚人。 何でこんなに居るんだと、リードは胸のうちで吐き捨てながら走り出す。 甲板は、魚人と、それと戦う戦士と船夫で溢れかえっていた。 あちこちで魔術の光が閃き、きん、という魚人の爪と金属の刃の触れ合う音が響き渡る。 どさ、どさりと倒れ伏していく魚人たち。だが、数が一向に絶えず、床はぬらりと光る鱗で埋まりかけていた。 ざんっ……リードがまた一匹の魚人を切り伏せた時。 「―――!」 背筋に、悪寒のようなものが走りぬける。 それは予感と呼ぶべきか。 彼が恐る恐る、立ち回る魚人と人々の間から、“それ”のいる方向を見た。 ゆらり、と。 新たに船に現れた長身の影は、魚人とは違う―――きわめて人型に近い。 だが明らかに違うのは、その頭部から生えた角のようなものと――― 背から生える、片翼。 目が離せない。 ただその目を見開いて、その影がゆっくりと何故か自分の方に歩いてくる様を見つめることしか出来ない――― はっとしてリードは剣を再び構えた。 だがその時は既に、その影はもう目の前といってもいい程の距離に居た。 影は言った。 『―――お前では、無い』 そのまままた歩みを進め、リードの脇を通り過ぎていく。 リードは一瞬呆けていたが、次の瞬間振り返って走り出す! そう、影の向かう先には―――! 「シルア!」 だが叫んだ時には既に遅く。 『……お前か……月の巫女は』 「……月の……巫女?」 シルアは恐怖しながらその影を見上げた。 元から黒いのか、月光を背負っている所為なのか―――顔が見えない。 赤くギラリと光る眼光が彼女を見下ろしている。 「シルア……!」 リードはすぐさま駆け寄り、影とシルアの間に立ちはだかる。 影は彼を見下ろし、興味がないというように手を振り――― だんっ! 「かはっ……!」 何か見えない力に、リードの身体は非情な勢いで船の柱に叩きつけられた。 「―――リード……!」 シルアが泣きそうになりながら駆け寄ろうとすると、その胸元を黒い手が掴み上げる。 もがく暇も無く、その影の高さまでに持ち上げられ。 『貴様は月の巫女だ。そうだろう?』 「知らなっ……」 シルアは苦しげに身を捩って何とか息を楽にしようとするが、影の手や腕は微動だにしない。 巫女であることは確かだが、“月の巫女”というものは聞いたことがなかった。 『サハギンどもが寄って来るのは、貴様がいるからだ。貴様の波動を少し誘導してやるだけで、こいつらは我を失って船に乗り込んできた』 「そ……んな、なんで……」 影は淡々と続ける。だが、それはシルアの様を楽しんでいるようにも見える。 『月は神も魔も引き寄せる。逆に太陽は生きとし生けるものを引き寄せる』 「……っ」 シルアは苦しげに息を吐き続ける。 『月は貴様を大層気に入ったようだ』 「な……」 『サハギンどもがこの海に幾らいるのかわからんが―――このままでは、あの子供もろとも船の人間どもは疲弊するだろう』 「やめっ……やめて!」 シルアは哀願した。 「あ、貴方がっ……私の波動を誘導しなければいいのでしょうっ……!」 『そうなるな』 「なら、やめて……!」 影はしばし、もがいて哀願し続けるシルアを眺める。 そして次には、どさりと彼女の体を木の床に投げ出す。 「きゃ……」 気のせいかぬるりとしているその床に放り出され、シルアは痛みと気味の悪さで泣きそうになる。 そうしている間にも、頭上から声がかかる。 『ふん……これが新しい月の巫女とは』 蔑む響きに、シルアは震えた。 否定。侮蔑。失望……冷酷な言葉は負の感情のみを引き出す。 『わざわざ様子見にきてやったというのに―――下らん』 「…………っ」 訳がわからないというのに、繰り返される棘にシルアは震えたまま涙を数滴零した。 ―――どうして、泣くのはおかしい。自分はもっと、強いと思っていた。 きゅ、と床についた手が拳をつくる。 「おい、お前……!」 はっとした。 苦しげながらもしっかりと耳に届いたのは、リードの声。 影はちらりと、そちらの方を見た。 「いい加減にしろよ……訳わからねえ独り言ほざくなよ……!」 リードは柱にもたれかかりながら、無理やり足を踏ん張って身体を起こす。 身体中が打たれたのだろう、一つ一つの動作に眉をしかめている。 シルアはその様を見ながら、我に返って滑る木の床を蹴り、彼の元に何とか駆け寄った。 影は止めなかった。もう、関心は欠片もないというように。 「あ……待って、今……」 シルアが近づいてくると、ずるずると力が抜けたようにまた座り込むリード。 彼女が何か呟くのが聞こえ、次には彼の身体の痛みが徐々に抜けていく。 「大丈夫……?」 シルアの消え入りそうな声音に、リードは先程よりは力強く頷く。 それに安心して、はっと影の方を見た。 影はただそこに立ち、シルアとリードを交互に見ていた。 シルアは今度は臆せず、相手を見据えることが出来た。 『……わからん』 それだけ呟くと、影は闇に溶けるように消えた。 いつの間にか、周りの喧騒は収まりつつあった。 |