夜明けの少し前に 第十三話 みゃう、みゃうと海鳥の鳴き声が青い空の下、ヘルゼ港に響き渡る。 白いその長い翼を広げて飛び去っていく姿をしばらく目で追ってみたが、やがて空に気まぐれに浮かぶ白い雲と重なった後は眩しくなって諦めた。 リードは改めて前に広がる光景を確かめた。 父が時々話してくれたり本の中に出てきたもの。塩辛い、そして独特の―――それは、潮の香りというらしい―――匂いが漂う、大量の水、では表現しきれないほどの大きなもの。 この時期は天候も穏やかで海も落ち着いているらしい。 ざざぁ…という小川のせせらぎとは程遠い音がただひたすら聞こえる。 色はそう、青だ。これは期待を裏切らなかった。そして、空の青とは違うその水面に、陽光による乱反射が生み出す煌きは鋭く目に焼きついて離れない。 時折吹く風は少し肌に当たるには冷たい刺すような感じもする。 「……これが、海」 リードは思わず呟いてしまう。 そう、アノールと中央大陸の間のこの海は“西の海”―――「サイ=ルム」。 さらに中央大陸南西のルミド王国とビアス公国が接する内海は「アッセ=ルム」と呼ばれ、そこは世界でも最も温暖で豊かな海とされている。 リードとシルアが今居るのは、大きな木造の船の甲板の端。 そこから、この生まれて初めて見る壮大な風景を二人は飽くことなく見つめていた。 マリナと二人は同じ時間に宿を発ち、そのまま港へ向かった。 船の入り口脇に居た、少し強面の男―――船乗りは、マリナにはなんの咎めも無く、むしろその見事な肢体をあまりよろしくない視線で一瞥して銀貨を受け取ったのだが、二人がその後から来た途端、足から天辺まで先程とは違うつまらなさそうな目でじろじろと見回し、二人が差し出す銀貨を受け取った。 すると、二人の後ろからやってきた更に図体のでかい男がその銀貨を受け取った男をいきなり叱り付けた。 『てめえ、何て目をしてやがる。客を選ぶなんてしみったれたことしてるんじゃねえ!!』 といってまたずんずんと去っていったのだから、怒鳴られた男よりも二人の方が驚いてしまった。ぶすっとしょげている男を見ながらマリナは船に乗った先でしょうがないわねえ、という顔をしていた。 割り当てられた客室はベッドが二つある少々狭いものだった。 案内した船乗りは、マリナとシルアを相部屋に、リードは別の船に泊まる男の客と相部屋とした。 荷物を置いた後、やはりリードとシルアはいてもたってもいられず、荷物を置いてすぐに甲板に出て行った。 他にも何人かがこの海を眺めたり談笑したりとしていたが、それも気に留めずただこの光景をその瞳に焼き付けるように眺める。 「……こんなに、広いのね……」 「うん……」 「綺麗……」 どこか上の空で、それでも互いの呟きを聞いて応える。 海鳥達が、また空から舞い戻って船の手すりや思い思いの場所に群がる。 ざあ、とリードのこげ茶の髪とシルアの長い黒髪が海風になびく。 シルアは時折視界に入る髪を細い指で留めながら、やはり海の向こうの水平線を見る。 リードといえば、今度は船に打ちつける波の動くさまを見たり、その下はどれぐらい深いのだろうとか、他愛も無い想像をしている。 カァン、カァンと金属音が響く。 二人が港の方を見やると、何か黒い鐘のようなものをもち、それを長い棒のようなもので打ち鳴らしていた。 すると今度は船の上のほう―――監視台からまた別の金属音が応える。 それを合図に―――船が、ゆっくりと進みだした。船乗り達の上げる、ときの声が勇ましい。 「動いた! すっげ……!」 リードは途端に身を乗り出して、だんだんと遠ざかる港を楽しそうに眺める。 シルアはそれにはらはらとしていたが、やがて同じように、今まで自分達の立っていた陸の方を見た。 手を振って見送る人たちが何人か居る。いつの間にかリードはそれに応えてぶんぶんと手を振っていた。 シルアはそれにくす、とこっそり笑いながら後ろを振り返る。出発したばかりだからか、時折船乗りがばたばたと走り回っている。 「おや、巫女さんか?」 ふと隣から声がかかって、シルアはそちらを見る。 そこには壮年の、日に焼けた肌が海で過ごしてきたことを物語るがっしりとした体格の男がいた。 シルアは少しびっくりしながらも答えた。 「あ……はい、そうです」 「そうかそうか。ご苦労なことだ。そっちの坊主は? 連れかい?」 連れ、というのが意味することがシルアはわからず、リードのほうを見る。 リードもこちらに気付いて、そして男に気付くと乗り出していた身を戻した。 「あ、俺?」 「そうだよ、お前さんだ。なんだ、随分ちっこいなぁ」 もじゃもじゃの髭に覆われた口を開け、がはは、と豪快に笑い声を上げる男に、リードはまたむっとする。 が、その悪意の無い様子にリードも怒る気をなくしたようだ。 「お前さんたち、海は初めてかい? 何なら、ひとつ話をしてやろうか」 「話?」 リードが問い返す。 すると男はやおら胸の前で腕を組み、何やら頷きながら話し出した。 「うむ。海は俺達に色んなもんを恵んでくれるが、時には危険に晒される」 「危険……ですか」 シルアが少し不安げに繰り返す。 「海の神様は、いつもご機嫌とは限らねえ。時には嵐だって、雷だってきやがる。それを乗り越えるのが、俺達なんだけどな!」 がはは、とまた笑った後、今度はやおら面持ちを真剣なものにして話を続けた。 「―――だがな、嬢ちゃんも坊主も注意してくれ。ここらへんは、最近魔物がよく出るんだ」 「魔物!?」 リードが目を見開いて聞く。 「ああ、そうだ。最近、やたらサハギンどもが船に纏わりついてくる。あいつらは強くはねえが、なにぶん数がな、数が」 「サハギン?」 「半魚人のことだ。魚みてえな身体だが、二本足で歩いて生意気に腕をもってやがる。 あの爪は痛いからな、気を付けろよ?」 そう言って、二人に腕の切り傷を見せつける。それは大分古いものだったが、それくらいの凶暴さを持っていることを示すには充分だった。 と、そこで男は見せるのを止め辺りを見回す。 「おっと、長話をしちまったな。俺も持ち場に戻らにゃ―――」 「船長!!」 若い男の声が響く。 すると男はそれに振り返った。 「おう、どうした」 「こちらにいらしたんですか、探しましたよ」 新入りらしい、ここに居る船乗りに比べればまだ細身の20代ぐらいの男が駆け寄ってくる。 「料理長が、呼んでましたよ」 「ん、そうか。それじゃあな、嬢ちゃんに坊主!」 少し唖然としている二人に構わず、その船長と呼ばれた男と若い船乗りは去っていった。 「……船長だったのか!」 「船長さん……」 驚くリードとシルア。 二人にしてみれば、まだ未知で一杯のこの海を渡る船の一番偉い人とくれば、感嘆を覚えるのも無理は無い。 その後二人は、しばらく船内を歩き回った。 舳先まで歩いてみたり、見張り台を見上げてみたり、他の客が泊まっている部屋の廊下を何となく歩いてみたり。 酒場は夜からなので営業していなかったが、食堂には何人か人が居た。 途中通り過ぎる船夫たちはやたら気さくに話しかけたり挨拶をするので、二人は戸惑いながらもそれに応えて。 午前中に船内探検を済ました二人は昼食を取って部屋に戻ったのだった。 |