夜明けの少し前に 第一話 碧い星に浮かぶ、幾つかの大陸。 中央大陸を取り囲むように存在する小大陸、島国――― そのうちの一つ、アノール大陸。 規模は中央大陸の中ほどにも満たないが、自然が豊かに息づくこの大陸。 その大陸では、ある二つの種族が、対立という名の元にその両名を広めていた。 『森人』―――フォルン族。森と命を共にする種族。 『夜人』―――イシュフェルード族。荒野に住む神秘の種族。 事の起こりは何だったのか。それも過去である。 ただ、この確執を当然のものとして、互いを憎みながらここまでやってきた。 この状況を一変させたのは、イシュフェルードに新しく生まれた巫女に降りた神託。 『フォルンを継ぐ者と出会い、共に月の光を持ち帰るのだ』 月の光を持ち帰る。 だが、その方法よりも、その前提に何より問題はあった。 “フォルンと馴れ合う? 馬鹿なことを……” 今更発展しようの無いこの関係。 だが、巫女は言った。 “巫女になれるのでしたら、成し遂げてみせましょう。それが、神の意志とあらば” 巫女の決意に渋々と、イシュフェルードはフォルンに話し合いの場を求めたのだった。 時は、太陽もいよいよ活気付く初夏。 「父さん!!」 ばたばたと騒がしく駆けつけてきたのは、一人の小柄な少年。 こげ茶の髪に、森の新緑を映した緑の瞳が鮮やかに目に映る。 今年で15になるその息子を、フォルンの長である父は今回ばかりは複雑な面持ちで迎えた。 朝の透明な陽光が、木造の落ち着いた造りの部屋にきらきらと差し込む。 自然の木目や形の癖をそのままにした家具―――その中の一つ、執務用の机に手を置きながら長はその傍らに立っている。 「リード。どうした」 「どうしたって……ほら! イシュフェルードが何か、こっちに言ってきたらしいじゃないか!!」 息子リードの口から出たその単語を、父、いやフォルンの長アラードは眉をしかめながら聞いた。 父のその反応に、リードはさらに語気を荒立てる。 「これで何度目だよ。また何か、変な言いがかりでも―――」 「リード」 止まらないかと思われたリードの言葉を、アラードはその名を呼ぶことで遮った。同じ緑の瞳が、厳しい光を称えている。 どちらからともなく言葉を探すような沈黙の後、リードはむすっと短く言う。 「……何、父さん」 「―――リード。私は、イシュフェルードの要求を受け入れる」 「……要求って?」 むすっとする代わりに訝しげな表情で、リードが問う。 アラードは、一度間を置いてから、はっきりと言った。 「イシュフェルードが、巫女の試練達成のために、我がフォルンの協力を求めてきたのだ」 「な……」 リードは今度こそ、言葉が出なかった。 敵対種族、イシュフェルード。 総てが謎、それ故神秘的。 彼らが、代が変わる毎に巫女を選び出しているのは知っていた。 だが、試練? 挙句の果てに、フォルンに協力を求める―――? (有り得ない) だが、現実は、父の言葉から出た。 確かに、イシュフェルードが他の種族と交流を図っているという噂も聞かない。 そういう意味ではここフォルンが一番近しいのだろうが。 この二つの種族は、大きくは無いものの、何度か戦のようなものを起こしてきた。 だが、互いに被害が大きくなるのを恐れ、すぐに休戦協定が出される。 それの繰り返し。それが当然。 「そ……そんなの、あっちで勝手に……」 リードの、フォルン側にしてみれば至極最もな意見を、父は首を振って否定する。 「今回は、そうもいかんらしい。何せ、神託の内容が内容だ……」 「神託? 神様からのお告げかなんかを貰うのか」 「巫女だから、そうだろう」 「で? 内容は?」 半ば噛み付くように聞いてくる息子を、父はやはり複雑な思いで見ることしか出来ない。 (此処で言って、何か癇癪を起こされては困る……) この感情豊かな息子の扱いに、父は時折困り果てていた。 「明日、こちらで話し合いの場を作る。イシュフェルードの代表と巫女を、こちらに招くことにした」 「……巫女……」 (巫女……噂では綺麗だとか聞くけど) リードは15歳の少年。そういうことに、興味がないことも無い。 (だけど、敵は……敵だろ?) そうして小さな葛藤をしている間にも、父の言葉は投げかけられてくる。 「そして明日の会議には、リード、お前も出なさい」 「え!? なんでだよっ……」 不意の命令にリードは動揺を隠せない。 だが父は問答無用、有無を言わさずに、厳しい表情と眼差しで続ける。 「お前はいずれフォルンを継ぐのだ。しっかりと、そういう状況にも慣れておけ」 「……わかった……」 昔からはねっかえりだったリードだが、父に逆らってもろくなことが無いのは身をもって知っている。 不機嫌きわまる表情をし、短くそう答えたのだった。 耳が痛くなるような、胸が苦しくなるような沈黙が支配する空間。 それは、ここが神聖な場であるから。神の言葉を受け取り、神の意志を携わる場であるから。 やや古びた、あまり装飾の無い灰の石の神殿。 水の張られた祭壇のある中央の間に、一人の少女が佇む。 少女が身をかがめると、その艶やかな腰まで伸ばされた黒髪がはらはらと肩から落ちる。 目を伏せれば、長く密に生えた睫毛がはっきりと解る。 肌は透けるように白く、その身体は華奢としか言いようが無い、頼りなさ。 だが、白の聖衣に包まれる少女らしい丸みを帯びてきたその身体は、若い男の目を引くには充分すぎる程であった。 少女は目を開け、ぱっと立ち上がる。 黒髪が揺れ、その真っ直ぐに立つ様は、凛と辺りの空気を一新させた。 宝石を思わせる青の瞳は、神殿の天井―――そしてその先の、ある存在に向けられる。 (神よ……明日、私は、行って参ります) あの、因縁のフォルンの土地へ。 まさか、自分の代でこんなことが起きようとは思わなかった。 だが、それも運命……神の、意志。 「……行って、参ります……」 そっと呟くその声は、少女らしい、澄んだ甘い声だった。 「……シルア。もう、寝なさい」 はっと、いつの間にか自室に入ってきていた母の声に気付く。 夕食をとって、準備をしたものの……中々寝る気になれず、こうして何をするとも無く机に向かって月を眺めていた。 まだ旅へと出発するわけでもないのに、妙な緊張が身体と心を支配する。 ぱっと振り返り、母譲りの黒髪を揺らして母に無理やり微笑む。 その笑顔は月光の中にあって、幻想的で愛らしかった。 「はい、ごめんなさい、お母様」 「……緊張してるのかしら?」 苦笑気味に微笑み返してきた母の言葉に、シルアはその表情を沈ませる。 「……ええ……」 「でも、しょうがないわね。巫女に選ばれたのは、シルアなんだから」 「ええ。自分でやりたいと思ったのよ」 「後悔は無いでしょう?」 「……多分」 「ま」 くすくす、と咎めることも無くわざと驚いたように笑う母。 シルアもそれにつられて笑い出す。 「……でも、もう寝なさいな。大丈夫、フォルンも本来は穏やかな種族なのよ」 「それは、わかってるけど……」 そう言いながら、この誰よりも穏やかで優しいであろう母にシルアは胸中で呟き始める。 (嘘。本当は、わかってない) わかるわけがない――― (会ったことも、見たこともないんだもの。それなのにいきなり会って話すだなんて、馬鹿げてる) それが少女の正直な感想だった。 でも、それで神に近づけるというのなら…… 「わかった。もう、寝るわ」 「ええ。シルア、お休み」 「お休みなさい、お母様」 最後にまた優しく微笑む母は、部屋を出てドアをパタンと閉める。静かな足音が聞こえて、それも遠くなる。 シルアはベッドに入り、不安を紛らわすように布団に包まった。 差し込む月光と彼女の息遣いだけが、この部屋を支配した。 |