闇がくれたもの

第ニ話





 竜族の継承権の争いの中、皇子の一人が失踪した―――



 最早8年前になるその出来事。
 だが、相次ぐ策略と暗殺でその継承者が失踪した皇子を除いて誰一人と居なくなってしまったことは竜族にとって由々しき事態であった。

 長らく盟約を交わしてきたエルフ族にも助力を求め、やっと数年前に見つけた皇子の居所を知り両種族は驚き、動揺する。






 そしてその“機会”を確実に利用すべく、両種族は動き出した。




































 町外れにある屋敷の朝。
 高い窓からの陽光と温かい香りに満ちる食堂に、一人の少年があくび交じりにやってきた。

「はよ……」

 わしわしと銀の髪をかき乱しながら、食卓に着く。
 それを、食卓の端―――いわゆる主の着く席で香茶を飲んでいた男、サレディが微笑みながら見ていた。

「お早う御座います、タキニアス」

 挨拶を聞きながら、タキニアスは香茶の入ったポットを手に取り、空いているカップにそれを注ぎ始めた。
 ほわりと湯気が立つそれに少し砂糖を入れて、一口含む。

 と、タキニアスは何かに気付いたように辺りを見回す。

「……あー……昨日の……?」

「ああ。彼女なら、まだ部屋で寝ていますよ」

「ふうん?」

 と、二口目。
 そしてかちゃ、と受け皿にカップを置くと、彼は並べられていたフォークを手に取った。
 サレディもそれを見て、楽にしていた姿勢を正しトーストを皿から取った。

「―――昨日、見つけたとき、な」

「はい?」

 タキニアスはそう言いながらふんわりとした炒り卵をフォークで少し掬うようにして口に運び、もぐもぐとして飲み下す。

「俺のことを迎えに来た―――だとか、よくわからんこと言ってた」

 ぴた、とサレディの卵とベーコンをトーストに載せていた手が止まる。
 だがそれも一瞬のことで、タキニアスが気付かないうちにそれは何気なく動きを再開する。

「迎えに来た、ですか。タキニアス、何か心当たりは?」

「無いって。だからよくわからないんだ」

 タキニアスもトーストにレタスとベーコン、そして炒り卵を載せながら言う。

 タキニアスは、ここに来る前の記憶が無い。
 覚えていたのは、自分の名前と、自分が竜族であるという漠然とした事実。
 だが彼はそのことを嘆きはしなかった。

「そもそも、何であんな所にいたんだろうなぁ……」

「…………」

 のんきにそう呟いて、はぐ、と二つ折りにしたそれにかぶりつく。
 サレディは無言でしばし手を動かしていたが、また話し出した。

「タキニアス、後であの子の所に食事を運んでやってください」

「へ? 俺が?」

「ええ。―――私は嫌われているようなので」

「?」

 苦笑交じりのその言葉に、タキニアスはただ怪訝そうな顔をせざるを得ない。
 それもその筈で、少女はまだ昨夜から寝たままで、自分はともかくサレディとは口を聞いていないはずなのでは、と思ったからだ。
 いや、自分が部屋から去った後に少女が目覚めたのかもしれないとその考えを改める。

 それにしても、この温厚な態度―――いわゆる『紳士』を崩さない男を気に入らない女がいることにタキニアスは驚いていた。確かに、胡散臭いものもあるかもしれないが。

 サレディはそれ以上何も話さず、ただ食事を続けている。
 タキニアスはその様子に問い詰める気力も無く、素直に返事をした。

「わかったよ、持って行く」

「有難う御座います」

 にっこりと甘いマスクに微笑を浮かべる、目の前の男。
 茶の真っ直ぐな長髪を髪留めで腰の上辺りでまとめ、シンプルではあるが気品漂うブラウスやベストを難なく着こなす彼は一見貴族のように思えるが実際のところはわからない。
 何しろ、この屋敷には使用人というものが一人も居ない。
 ならこの食事というのは―――勿論、サレディ本人が作ったものである。
 器用な男だ、とタキニアスは感心したものだった。
 掃除をしているのかどうかは知らない。
 そんなに普段から屋敷の中を歩き回っているわけでもない。

 自分がこの屋敷に転がり込んだのは8年ほど前のこと。
 それからずっとこの年齢不詳、正体不明のこの男と二人で暮らしている。

 それ以来この屋敷に訪れるのは食料品を届ける配達人や思い出したように来る郵便物ぐらいのもので、本当に何者なのかと探って掛かってみたりするのだが―――



 あの何か裏のありそうな微笑を向けられると、何も言えなくなってしまうのだった。






























「―――あ」

 目の前のドア。ノックをしかけて、やめる。

(寝てるの起こしたら悪いよな。でも起きてたら―――)

 そんな葛藤の末。



と、とん。



 控えめなノックをして、タキニアスは部屋へと入った。

ぱたん……

 静かにドアを閉めて、食事の載ったトレーを持ちながら部屋の奥にあるベッドに向かう。



 少女は、その瞳を閉じてベッドに横たわったままであった。
 白い肌に長く密に生えた睫毛が見て取れて、タキニアスは少し見入ってしまう。
 そして尖った耳―――それはどうみてもエルフのものであった。



「…………」

 タキニアスは、昨夜サレディが座っていた椅子に腰掛け、膝にトレーを置くとしばしその少女を眺めていた。

―――迎えに来たの―――

 昨夜の少女の言葉が思い出される。



 すると、少女がまるで起きていたかのようにすっと瞼を開けた。
 タキニアスが驚く中、少女は顔だけを動かして彼を見上げた。

「……起きたのか?」

 そう問うと、少女は無表情でこくりと頷く。

「これ、食事な。水は?」

 言った後水の入ったコップを差し出すと、少女は上半身を起こしてそれを受け取った。
 やはり喉が渇いていたのか、薄桃の唇に近づけこくこくとそれを飲み干した。

「香茶も、あるから。一人で食べられるか?」

「……はい」

 昨夜と同じ、透き通った少女の声。
 空になったコップを受け取り、代わりに食事の載るトレーを渡す。

(俺……いつまでいればいいのかな)

 この食事の様子を見守るべきなのか。
 そんな風に考えているタキニアスの脳裏に、今では最初とも言うべき記憶が蘇る。






―――サレディがそうしてくれたように……













































 がちゃ、とドアの開けられる音―――

 真っ直ぐな、明るい茶の長髪を優雅に後ろで束ねた片眼鏡をかけた男が部屋に入ってくると、ベッドの上の主は、うるる…と唸り声を上げた。

 男は、くすりと笑ってこう言った。

「大丈夫、安心して下さい。それと―――ちゃんと、わかっていますよ」

 わかっていますよ、という言葉に、その唸り声の主はぴくりと反応を示す。
 すなわちそれは、人語を解するということ。

「すみませんね、今ここにあるのはスプーンと暖かいスープなのですが」

 そう言った男の片手には、木のトレーに載ったスプーンと琥珀色の澄んだ湯気の立つスープ。それを確かめ、ベッドの上のそれは次第に大人しくなる。
 そして、ベッドの上に白い光が現れる。

 やがて弾けた光から姿を現したのは、一糸纏わぬ姿の少年。
 整った顔立ちは、今は憮然としてまだ警戒心が残っている。
 銀髪と深緑の瞳は、きちんとその“前”の姿に似通っていた。

「こんにちは」

「…………」

「お話は、食事の後にしましょうか。さあ、まずはこれをどうぞ」

「…………」

 男がにこやかに差し出す衣服を、少年は受け取って無言で身につける。その後木のトレーを受け取りすぐにスプーンを手に取ってそれを飲み始めた。
 男の笑みが更に面白がるものになる。

「パンも、持ってきましょうか」

 こくり、と頷きながら夢中でスープを口に運ぶ少年。
 この姿に戻ったのは、どうやら食欲が勝ったこともあるらしい。

「では、待ってて下さいね」

 男が部屋を出て行くのを、少年は一瞥した後、またスープに取り掛かった。









「……俺、お金、持ってない」

 男の持ってきたパンを平らげ、砂糖とミルクの入った香茶を飲み干した少年はそう切り出した。

「何もとりませんよ、別に。安心してください」

「……安心?」

 少し思いがけない少年の聞き返した言葉に、男はただ少年の深緑の瞳を見つめる。
 そういえばこの言葉も二回目だったか、と男は頭のどこかで思った。

「ええ。別に私は人攫いでも、奴隷商人でも、人食いでもありません」

「なんだそれ」

「そういうことですよ」

 少年は男のふざけたような返事にしばし憮然としたままだったが、少し後にはその表情を柔らかいものにしていた。満腹になったこともあり、目がとろんとしてくる。
 男はそれを見て、微笑を浮かべながら言う。

「もう一眠りしなさい。まだ疲れているでしょう」

「……なあ」

「はい?」

 男の言葉に無意識に従い、ベッドに横になる少年。
 男はそれに布団を掛けようと身を屈めると、その袖の裾がきゅっとつかまれる。

「俺……」

 そう呟いた後、言葉が途切れる。
 何かを言おうとして、躊躇ったようだ。伏せた瞳は、ただ一色の感情に染まる。

 だが男はわかっていたように微笑を浮かべ、囁くように言う。

「―――好きなだけ、ここに居なさい」

 少年はその言葉を聞いた途端に、その瞼を閉じた。



















































 タキニアスははっと我に返った。
 いつの間にか少女は、その大きな紺の瞳でタキニアスの顔をじっと見ている。

「……どうか、したか?」

 少女の手元を見ると、食事は手をつけたようだがそのまま止まってしまっている。

「……タキニアス……」

「……!」

 少女は、目の前の少年の名を呟いた。
 どくん、と心臓が嫌な音を立てて鼓動を刻む。

「タキニアス=ノヴァン=ドレイク。私と共に、来てくれますか」

「な……?」

 淀みなく淡々と言う少女に、タキニアスはただ目を見張るばかり。
 確かにタキニアスというのは自分の名だ。だが、その後の二つの姓は聞き覚えの無いもので―――

 まさか。

 心臓の音が耳障りなくらい早鐘のように鳴っていて―――

「お前、まさか……俺のこと―――」






こん、こん。






 タキニアスの言葉を遮るように響く、ノック。
 ばっと彼が振り返ると、ドアは既に開けられていた。

 そこには、長身の男―――サレディの姿が。

「おや、お邪魔でしたか?」

 サレディはいつもの微笑のまま、二人の元へと歩いていく。
 そして、手に持っていた布をすっと少女に見せる。

「貴方の服です。動くのに無理が無くなったら、着て下さい」

「…………」

 だが、少女はその微笑を称える男をじっと見据える。
 それはタキニアスを見ていたときのようなものではなく、もっと、その奥に何かが―――

「それでは、失礼します。ああ、タキニアス―――あまり、長居するのも感心できませんねえ」

 サレディはその少女の衣服をベッド脇の小机に置くと、タキニアスに意味深な響きで言う。それは、年頃の男女、というような揶揄を含んでいるのだろうかとタキニアスはむっとし、それから考えた。

―――この少女は、自分のことを知っている。

 聞きたい。自分の、過去を。
 今まで切にそれを願ってきたわけではなかったが―――それでも今、そうした状況に直面すると流石に事情は変わってくる。

 だがここで、つまらない誤解をサレディに受けるのも気にくわない。

 しょうがなく、タキニアスも席を立った。

「……後で、食器、取りに来るから」

「…………」

 少女は何か言いたげにタキニアスを見上げたが、それもやめて食事に視線を落とした。
 その様子を見て、タキニアスはサレディに続いてドアの外へと向かった。