夜明けの少し前に

第六話






 軽くまどろみかけていたことに気付き、彼は瞬きを何度か故意に繰り返した後、慎重に上半身を起こした。
 掛けることも忘れていた布を、ランプの淡いオレンジに照らされる彼女の白い肩まで引っ張り、ふわ、と落とすように掛けてやる。



 だが、この愛しくてたまらない青い髪の美女は一連の行動にぴくとも反応を示さない。だが念のため、と片手をさっと彼女の額にかざして一時的に眠りの魔術をかける。
 先程と変わらない、深い眠りが寝息から聞いて取れる。

 その様子に彼はほっと息をつき、そのままベッドの下からある革袋を取り出す。
 この豪奢な部屋には似合わない、普通のやや新しい感のある丈夫そうな―――そう、それは旅をする者に相応しいもの。
 そこから服のようなものを引っ張り出し、物音を立てぬよう慎重に、そして素早く身につける。






 ベッドから降りると、最後に持っていたありふれた白をしたフード付きのマントをふわりと肩にかぶせた後、襟元の留め紐を結ぶ。だが、まだフードは被らない。
 その代わり、部屋にある彼の身長はゆうに越す大きさの金の額に入った楕円の鏡の前に行った。



 壁に立てかけられたそれに映る自分を見つめる。



 すっぽりと首から下を包むマントの下には、ややゆったりした動きやすい―――そう、これから何に襲われてもいいように備えた―――服に、いざという時を考え魔力を封じた宝石をはめ込んだ装飾品をつけていた。腰にはマントの上からではちょっとわからない程度の大きさの細身の剣に、小剣も何本かをベルトにつけている。
 一見すれば魔術師なのか剣士なのかわからないような格好だが、それも彼の持つ不思議な雰囲気にはあまり違和感を感じない。

 視線の先を、自分の顔に移した。

 一部の自分の離宮に通う使用人たちや長い間顔を合わせてきた彼女でさえも何度も見惚れるこの容姿。美女かと見まごう程の美貌に、白い肌は更に儚さを強調する。
 切れ長の目に収まる瞳は紫水晶を淡くしたそれで、問題は今はマントの下に殆ど隠れている―――その、腰ほどまである髪。



 ベッドの枕元のランプに僅かに照らされるそれは、金がかった……白。
 老いた者の白髪とは違う。それは絹糸のように滑らかで艶やかであり、とても常人の持つ色とは思えない。金に煌く瞬間が、最も神秘的であった。

 この髪を見てしまえば、顔を見ずとも、誰だって自分だとわかってしまう。



―――じゃあ、こうすればいい。



 彼は人差し指を、自分の額、髪の生え際辺りにそっと触れさせる。
 そして、目を閉じた。

 マントの下にあった髪が突如ざわざわと揺れだし、それはまるでマントの内から風が吹き上げているかのようにふわぁっと抜け出して外の空気に触れる。
 そしてすぐに、指の触れている生え際から異変が起こった。
 純白の髪が、そこから艶やかな漆黒へと染まっていったのだ。
 それは糸に墨が染み渡るが如く、一本一本の毛先まで広がっていく。



 やがて鏡に映ったのは、豊かな黒髪を腰までたたえた美麗な青年が無表情で立ち尽くしている姿。



 彼はどこからか、銀を使った髪留めを取り出し、背中に垂れる黒髪を脇に残るのも気にせずさっとまとめ、ちょうど胸の裏側辺りで留める。ばさばさと放っておくよりはましだと思いそうしたらしい。

 その髪をまたマントの下にしまいこみ、鏡から目を逸らすとそのまま彼女の寝ているベッドの方へと歩み寄る。






 彼の眼差しは、ただ彼女の為だけに注がれる。
 愁いを帯びた紫水晶の瞳は閉じられ、そのまま形の良いやや薄い唇が彼女の唇に寄せられていく。こめかみ辺りの余った、彼女も見たことの無い漆黒の髪が、さらさらと彼女の脇に零れ落ちる。

 唇を触れさせるだけで良い、そう思っていたのに―――いつのまにか、舌は入れないにしても唇を深く重ねその柔らかで甘い唇を長いこと味わっていた。
 我に返って、それでも惜しく感じられたが、何とか離した。
 眠りの術をかけていたことに自分で安堵し―――そして、どこか寂しく思う。












 もう、こうすることも無いのだろう。
 この旅の先に待つのは、成功でも、希望でもない。
 ただ、この“身の内にあるもの”は切に自分に訴えてくる。



 帰りたい、と。



 もう、うんざりだった。
 この生活が。この状況が。この環境が。
 幻の第一皇子。国王と王妃―――両親は初めて持つ自らの子の存在を隠蔽した。
 離宮に密かに暮らすこの自分の存在価値は?
 誰にも必要とされず、誰にも認められることも無くこのままその身を朽ち果てさせろというのか?

 そんな中で出逢った、彼女という存在。
 どれだけ救われただろう。
 どれだけ泣かずに済んだだろう。

 今の自分がこうして少しでも前を向けるのは、彼女が居てくれたから。
 ごく一部の自分を知る王宮関係者に―――親ですらに“月の子”と称され避けられる自分を厭わず、そんな自分を愛してくれたから。






 だけど、このままでは彼女は幸せになれない。






 忍んで自分を訪ねてきてくれることはとても嬉しい。
 でも、そんなことをさせていて気分がいいわけではない。

 熱を帯びた言葉を囁いて、愛しさの余り震える唇を重ねて、触れるだけで歓びを覚える身体をかき抱いて―――それだけで、この女(ひと)を幸せにすることはかなわない。

 ふとその彼女の閉じられた目の端を見て驚いた。
 一筋の涙が、頬を今に溢れて伝おうとしている。
 途端にどうしようもなく愛しさがこみ上げてきて、それを唇で掬い取る。
 その時触れた肌が愛しくて、しばし滑らせた後にまた離した。



 生き生きとして美しい、そして一番で唯一の愛しいひと。



 さようなら―――






「さようなら……」






 女々しい別れだと、自分でも思った。声が思っていたよりも震えていた。
 それでもこの溢れる気持ちを少しでも、少しでもこれから長い間無人になるであろう部屋に残しておければ。
 夢の無い人為の眠りの中の彼女の耳に、この響きだけでも残っていればと思った。



 彼はさっと屈んでいた姿勢を正すと、フードをばさりと被って颯爽とテラスへ出て行った―――。













































―――マリナ―――



 はっと突然、何かに呼ばれたように目が覚めた。






 まだ暗い部屋に、やや暖かみのある淡いオレンジのランプの明かりがぼんやりと広がっている。
 だが、そのランプは本来自分の隣で寝ているはずの人物を浮かび上がらせはしなかった。



「―――……」



 寝そべったまま、さら、と最上の触り心地のシーツ―――彼が寝ていた場所に手のひらを這わす。
 体温は、残っては居なかった。



 彼が居ない。



 解っていた。彼はいずれ、ここを離れると。そしてそれが、今夜であると。
 でも、それを引き止めるのも嫌だった。自由というものを持たない彼にとって、自分が引き止めることはどれだけ重荷に、不快に感じるのか。



 目の端が少し張り詰めたような感じがする。
 触ってみると、何だか少し湿っている。
 知らないうちに、泣いていたのだろうか。
 もしかして、彼に見られていたのだろうか……?



 そうして彼のことを考えるにつれて、涙腺は痛いほどに緩んできた。



 じわり、とシーツに頬を伝った涙が滲んでいく。
 だが彼女はむしろ安堵していた。彼の目の前で、女々しく泣き出さないでよかったと。






―――でも。






 でも、貴方に会いたいの。









 許して。弱い私を、許して―――……エイジス……