夜明けの少し前に 第四十一話 重い。 心が重ければ、身体は自然と重くなる。 「…………」 空を仰げば、広がるのは濃い灰色。 今は朝だというのに陽も見えず、当然月などその彼方だ。 直接届いてこない光が恋しいのかはわからないが、妙な不安が身の内にあった。 「シルア」 ふと脇から声がかかり、そちらを見る。 立っていたのは緑の瞳の少年。 「まだ気分が悪いか?」 「ううん」 ―――大丈夫。 そう続けたくても、何故か口がその動きを拒んだ。 彼は心配そうな表情をしていたが、深く聞き込むこともせずただ隣に立っている。 どうすれば良いのか……なんて、聞けやしないのだ。 魔族の襲撃のあった夜から一日王城に滞在した後、シルアとリードを含むエイジス率いる一行はテードルへと出発した。 朝食を軽く食べ、慌しく荷物を整えると国王ジルベルトへの挨拶もそこそこに王城を去っていた。 テードルは、ルミド王国の北に接する公国。 寒さが厳しく余り土地も肥えておらず、唯一栄えるのはシュザ山脈の一部であるサンカという一帯で採れる特殊金属“オリハルコン”の輸出である。 魔力を帯びる剣―――それも相当な値を張るものは大抵この金属が使われている。 銀や白金なども魔力を付加しやすいのだが、その大きさが違うのだ。 そのテードルへ向かう為、彼らはそのサンカという土地を通り抜けることにした。 坑道を利用させてもらおう、と提案したのは竜族の長キーニアス。 シゼーヌから使った月の道は、次に無事に通り抜けられる保証は無い。 「サンカの坑道には、ドワーフが居るという話だ」 山脈の谷間にあるそこを目指す道中、キーニアスはそう語ってくれた。 アリミドナール王国の領土の大半を占める広大な森―――その奥深い場所の直前までは馬車で移動している。 慣れない揺れをやり過ごしつつリードは問うた。 「ドワーフって、小さい人か?」 「ああ。お前よりも少し背は低いだろうが……その分水に浮かないぐらい剛健な体格をしている」 「水に浮かない……」 フォルンの森の奥にある泉で泳いだ記憶が蘇り、想像の出来ないその話に唖然とする。 キーニアスは、苦笑を浮かべて続ける。 「彼らは山や地下で暮らしているのだ。故に、海や湖などといった泳ぐことの出来る水場には余り縁が無い。 だが最近はその数も減っているという……私も最後に見たのは数百年前だ」 「…………」 がたごとと揺れる馬車内で、リードは『数百年前』という言葉に呆然とする。 今目の前に居るのは初老の男性だというのに、その光景と事実の差はどう見たって測り知れない。 「彼らは温厚な種族だ。もし居るのなら、案内役を買って出てくれる筈だ」 「キーニアス、彼らに事情は話すのか?」 すると紅い髪のエルフ―――エルリアがそう聞いた。 キーニアスは首を振る。 「いや、話したところで彼らの生活を脅かしたくない。彼らの方から聞いてくれば話は別だが」 「……そうか」 がたん。 思い出したように来る、大きな揺れ。 シルアの黒髪が重たげに跳ね、それでも彼女の視線は窓の外に向けられたままだった。 紺の瞳は彷徨うことなく、流れる緑を追うこともなく空の一点を見据えている。 忘れていたいことは、何時だって目の前に迫っている。 視界に入れることにすら怯え、視線も自由に動かせない。 そうだ、こんなに胸の奥にしまいこもうとしているぐらいならいっそのこと――― (……聞けるの、だろうか) 口に出すことが怖いのに、人に聞くなんて。 そもそも誰に聞けばいい? 本人? もし聞いたとして、はぐらかされてしまったら……? その時自分は、どうするのだろう。 きゅ、と瞳を閉じる。 だが寝不足気味の割には眠気も無く、ただ閉じていることも苦痛になる。 顔を窓から背け前を向いて目を開ける。 「―――……」 目の前にある鮮やかな紅が目に入る。 ぼうっとしたまま見つめていると、やがてその紅い髪の持ち主である女性―――エルリアはその視線に気付く。 彼女は僅かに訝しげな顔をしてシルアを見つめ返す。 「…………」 だが何も言わず、ついと視線を窓の外にやった。 その時にはもう無表情で、シルアの視線を厭わしく思ったのかどうかはわからない。 シルアはその動作の後、のろのろと視線を狭い床に落とした。 不審がられるのがわかっていても、空元気なんて湧いてきそうにも無かった。 「それでは、道中御気を付けてお進み下さい」 「うむ」 御者が深くは無いが一礼をすると、また馬を走らせ来た道を戻ってゆく。 からから、かたかたという音が遠ざかるのを待たずキーニアスは皆に話しかける。 「ここからは歩くことになる。大丈夫だ、道はある」 そう言うなり彼は皆がただ立っている中、目の前にある一層濃くなった緑の中へと入ってゆく。 エルリアもそれにならって歩き出し、他の三人が歩き出した頃振り返って告げた。 「――― 一応言っておく。この時期、昼とはいえ妖魔が出てくるかもしれない。各々気をつけて欲しい」 それだけ言うとまた前を見て足を進めていく。 エイジスは特に表情は動かさず彼女の後を追い、シルアとリードの二人は少し戸惑ってからはぐれないよう前を行く三人を追った。 「……そういえば」 エイジスは歩きながら振り返ってリードとシルアの二人を見た。 「お前たちは妖魔と戦ったことがあるのか?」 「―――あ……る」 リードが答える。 旅の最初の頃、出逢った狼の姿をしたあれはおそらく妖魔と呼べるものだと思った。 エイジスはその答えに特に意外そうな顔もせず、 「そうか、ならいい」 また前を向いて歩き続ける。 リードは少しなんとも言えない顔をしていたが、シルアの表情は沈んだままだった。 リードは森の中を見回す。 フォルンの森に負けず濃い緑に、少し安心感を覚える。 こんな状況だが、気分はそれなりに良い。 時折聞こえる鳥のさえずりや、いつの間にかまだらに差し込む陽光を肌に映して楽しんでいた。 そうして歩いている間に、いつの間にか横にはエイジスがいた。 どうやらこちらが追いついてしまったらしい。 振り返ってシルアの姿を確かめるが、また隣に戻ることも何となく躊躇ってしまう。 「……森は好きか?」 するとエイジスが自嘲的なものではない微笑を浮かべながらリードにそう聞いた。 少々浮かれていたところを見られたのかと、決まり悪い気分になりながら答える。 「そりゃ……好きだよ」 「フォルンから来たらしいな。アノール大陸の」 「……うん、まあ」 「どちらの森が濃いかわかるか?」 何でそんなことを聞くのだろう、とリードは僅かに眉をしかめてエイジスの顔を見る。 だが彼はごく一般の世間話をしている風で、特に気に留める様子は無い。 リードは少しだけ目を閉じて記憶を呼ぶ。 幼い頃も、旅立つ前もずっと身近にあった森――― エルフとは又違い、彼らは彼らなりに森を愛していた。 明るい緑の瞳が開けられる。 急に懐かしいものがこみ上げてくるが、そこは抑えて口を開いた。 「わからない」 「わからない?」 「森は、森だよ」 リードの短い答えにエイジスは不思議そうに聞き返すが、次にはまた微笑んで前を見る。 「……そうか」 こげ茶の髪に緑の瞳。 古くから在る“森の民”は、何時の時代も純粋で真っ直ぐだ。 それを色濃く受け継いでいることが解る少年の横顔は、遥か遠くのその地を思わせた。 |