夜明けの少し前に

第四十話





 虫の声が響く庭に、静かに動く影があった。

 夜の庭を散策することは“彼”の日課であり、主人の居ぬ間もそうしてきた。
 今宵は様々な匂いがする夜の大気を濡れた鼻でふんふんと嗅ぎ、また何も無かったように四本の足を滑らかに進める。

 ききっ、とどこかで小動物が甲高い叫び声を上げる。
 だがそれは“彼”が近づいた故に発したのではなかった。



 さく、さくり。

 敢えてそうしているように、草を踏む音が近づいてくる。
 だが“彼”は別段驚く様子も怯える様子も無い。ただ、その方向を金の瞳で見据えている。

 やがて浮かび上がる人影。
 長い尾を揺らすと、その人物は穏やかに話しかけてきた。

「……ズナーク、とでもいいましたか」

 唸り一つ返さず、ただ見つめ続ける。
 特に警戒しているわけでもない。やはり、見つめ続ける。

「そんなに見ないで下さい。泥棒ではありませんよ」

 うる、と今度は短く唸りが発された。
 目の前の人物の赤い瞳、そして口元の微笑が月光に浮かび上がる様はどうみても不審人物のようにしか見えないが、“彼”は逃げ出すことをしない。



「貴方はどこまでわかってらっしゃるのでしょうね」

 面白がるように言うので、長い尾を少し大きく揺らす。
 反応、としかいいようの無いその動きに苦笑が見える。

「いいのですか。貴方のご主人が何をなさっても」

 すると興味が無いというように、ふいと顔をそむけたかと思うとそのまましなやかな身体は方向を変えて人物の前から去っていった。
 闇に溶けてゆく漆黒の後姿を、人物はしばし見送る。















「―――……」

 黄金の弧を見上げると、茶の長髪がさらりと揺れる。
 普段と変わらぬように見えるその光は、明らかに衰えを見せている。
 夜風が吹いて、木々がさわさわと鳴った。

 心の内で、仰ぐものに呟いた。









(私も、お手伝いしましょう)

 そう、“あなた”にお返しします―――

(ですから)

 私に―――

(あの―――あの……)









 かつては私の虚無を埋めていたものを―――









「……返して、下さい」

 赤の瞳に浮かぶ細い月は、危うい狂気と純粋を孕んでいた。