闇がくれたもの

第五話





 タキニアスは、屋敷の外に出た。



 その深緑の瞳は、深い決意と―――そして不安が隠せずにいながら森の方を見た。

 屋敷の周りに広がる、広い森。
 自分はここで、人目を気にせずもう一つの姿で森を飛び回ったものだった。



 その懐かしい日々に想いを馳せながら、タキニアスはもう一度屋敷を振り返る。



 サレディは、あれから屋敷の中で一度も姿を見なかった。
 居なく、なったのだ。

 そしてそれはそのまま、自分への裏切りのように感じられて。



 荷物などは、何も持ってこなかった。
 元々、サレディはそこまでモノを与えてくれることもなかった。
 衣服や、そうした生活上必要なものは惜しみなく与えてくれたが。



 もう一度、歩き出す。
 やがて見えてきたのは―――期待を裏切らず、闇の木立と月光に煌く紅い髪。

 エルリアというエルフの少女は、その言葉通りに森の入り口で佇んでいた。






「―――来て、くれるのですね」

「ああ」

「記憶を、取り戻したいのですか」

「ああ。―――今すぐに、か?」

「いえ、もう少ししたら……そうしましょう。こちらへ」

 そう言って、エルリアは森の中へと導く。
 彼はそれに従いついてゆき、少し森の入り口に生える木の下に入った途端。






「―――!?」






 ふと振り返って、目を疑った。
 いつの間にか、森の闇から屋敷を取り囲むように―――数十人、いやそれ以上になるのか―――大勢の人影が音も無く出てきたのだ。

 それはまだ出てくるようで、やがてそれは輪となって、完全に屋敷を取り囲む。






「―――な、何を……!?」

 その肌があわ立つような静けさにタキニアスが愕然と呟くのも気にせず、エルリアは闇の奥に呼びかけた。



「―――キーニアス様。ご子息に、なられます」

「!?」

 タキニアスはエルリアの言葉にまた前を向いてエルリアの瞳の先を見た。

 やがて、闇の木立の中から、人影が浮かび上がるように出てくる。






 長身に引き締まった身体。肩を過ぎる程度に伸ばされた銀の髪。強い光を秘める、深緑の双眸。
 端整な顔立ちには少し年が感じられるが、それでもその力強さ、厳格さは失われない。






「……っ」

 タキニアスは頭の奥に痛みを覚える。






 その人物はタキニアスの姿を確かめると、やや表情を柔らかくしたように思えた。
 エルリアはその人物に何かを求めるように見つめる。

 銀髪の、タキニアスに良く似通った、キーニアスと呼ばれた男は口を開いた。



「……エルリア殿、よく、やって下さった」

「いえ。……名前を」

 エルリアが短く答え、促す。
 そしてキーニアスはやや重く間を置いて―――









「―――タキニアス=ノヴァン=ドレイク」









 名を、呼んだ。
 それだけで。



「―――うあっ……!?」



 タキニアスの視界に火花が散り、そして―――脳裏に一瞬で駆け巡る……過去。






 生まれた場所。
 竜族の跡継ぎとして育ち、そして命を狙われ続け―――






「よく、生きていてくれた」

「……ぁ……」

 タキニアスは弱々しく掠れた声をあげ、目の前の人物を見上げる。

「思い出したろう? ―――お前の父、キーニアスだ」

「あ……」

 タキニアスはただ、呆然とその前の父だという人物を見つめる。
 いや、父に違いなかった。今にも胸の中は、その父に会えたという感慨深い様々な感情が満ち溢れようとしている。

「……父さんっ……?」

 父キーニアスは息子タキニアスの身体を力強く抱きしめた。

「……お前を逃がした時、記憶に封印をかけたのだ……そして、私がその名を呼ぶとき、それは解けるように、と」

「…………」

「まさか、魔族の元にいようとは思わなかったが。さあ、戻ろう。我らが竜族の土地へ」

 びくん、とタキニアスの身体が震える。

「…………」

「タキニアス?」

 無言のままの、腕の中の息子。
 訝しく思い身を離して表情を覗き込もうとする。

 その表情は、無表情に限りなく近かった。

「タキニアス……?」










































「おや……また、これは大勢」

「ふん……竜族の長も、息子を陥れた魔族は憎いのだろうよ」

「追いやったのはあっちなのになぁ」

「……竜も、エルフも、落ちたものですよ。全く」

「行くか?」

「お先にどうぞ、お二人とも」

「ああ」

「わかった」




































「おい、見ろ!!」



 輪の中の一人が、上を指差し叫ぶ。

 と―――



「―――がふっ」



 その尖った耳―――叫んだエルフの男は胸を瞬時に貫いた赤光によって命を途絶えさせた。



 どさ、と倒れる身体。



 ざわぁっ…としたどよめきの後、訪れる沈黙。
 しかしその沈黙は―――唯一つ、殺意に満ちる。






 すうっ…と闇の中から月を背に降りてきたのは、黒髪に黒の瞳、生気の無い顔をした男。
 片手には先程の赤光の残滓が揺らめいている。
 その黒の瞳は今は残酷な光を称えていて―――






 もう一人、虚空から現れ出たのは血のような赤い髪に黄色の瞳の、獰猛そうな笑みを浮かべた男。
 その手にあるのは、彼の身の丈を超えるほどの大きなハルバード。
 大きな炎にも似たその鋭い刃を月光にぎらつかせる。












 その圧倒的な存在感と夜の空気に満ちた殺意の肌を刺すような痛みに、キーニアスとエルリアは屋敷の方向を見る。

 そして、タキニアスものろのろとそちらを見て―――









 彼の見開かれた瞳に映る、三人目の影。
























 茶の真っ直ぐな長髪は、今は留めることなくただ夜風になびかせている。
 男としては白い肌に映える、片眼鏡を外した血の様な赤い瞳が―――今宵は紅に染まる。
 あの甘いマスクは、いつもと変わらぬ微笑を浮かべている。

 だがそれは、知らぬものから見ればさぞかし悪寒の走るほどに恐ろしいものに違いなかった。












「―――サレディ」






「な?」

「サレディ……!」

 キーニアスが怪訝そうに声を上げるのも耳に入らないのか、そのまま彼の元を離れタキニアスはふら、と再び屋敷の方へと歩き始めた。

「―――!」

 エルリアは急いで彼の手を掴む。
 キーニアスも同じように彼の肩を掴んで耳元で話し始めた。






「いいか、良く聞けタキニアス……!
あいつは魔族だ。我々の宿敵―――闇の、住人だ」






 闇。






「魔族に情は存在しない。
何も知らないお前など、あの男が―――“闇の微笑”がその気になれば泣き声を上げる間もなく殺されていたのだぞ……!」






 情。






「考えろ、タキニアス!」






―――何を。






「それ―――でも」

「タキニアス?」

 キーニアスは息子の呟きに耳を傾ける。






「タキニアス=ノヴァン=ドレイク!!」

 びく、とタキニアスの身が震える。
 それはエルリアの―――彼よりも一回り幼い容姿を持ったエルフの少女の叱咤だった。

「これまで、幾度も我ら―――エルフ、竜、そして人間……いえ、それ以外にも命を大量に奪ってきた魔族!
その元に自ら赴くことは、竜族の皇子の恥と知りなさい!!」

 キーニアスは続けた。

「タキニアス、頼む……お前は、竜族の皇子。竜族を統べる、最後の皇子なのだ……!」









「……サレディは」

 タキニアスはそれに構わず呟く。

「俺のことを、護ってくれた」

「何を……!」

 エルリアは感情を隠さずに反論しかける。

「嘘、でも……演技でも……俺は、そのことに」



―――そのことに。



「安心、してたんだ……」






「安心……?」






 タキニアスのぽつりぽつりとした呟きに、キーニアスは信じられないというようにその単語を繰り返す。






「―――サレディ=ヴィスタは変わり者」






 エルリアは語りだす。






「人間の中に立ち混じり、それを楽しむ日々を過ごす」






 それ故、“人間”の持つ感情をどの魔族より理解している。






「だから、他の魔族は彼にそのまま貴方を委ねた。
如何に、貴方の信用を得、そしてその元に置いておくか―――それが出来るのは、サレディ=ヴィスタしかいなかった」






 だが、タキニアスの瞳は揺るがない。
 ただ、今も輪を見下ろすその“闇の微笑”の影に見入っている。






「俺は……竜族の皇子で」

 タキニアスはまた話し出す。

「他の皇子を支える奴らから、何度も命を狙われて」

「…………」

「でも、父さん。あんたは、そんな俺に何をしてくれた?」

「…………」

「顔を合わせていたのは最初の方ばかりで。
後は忙しいことを理由に会うのは式典や行事の時だけ。

―――俺の乳母が俺の命を狙ったときでさえ、あんたは何もしなかった」

「……タキニアス、それは」

「わざわざ記憶に封印をかけてくれたことには感謝してる。
でも―――でも、俺は―――……」






 サレディの、演技であってもその心遣いが何より、嬉しかった。

 殺意を巧みに隠していたことに逆に今、救われている。

 総てが偽りでも、俺の中に生まれた感情は間違いなく真実のもの。









だっ!









「!!」

「タキニアス!」

 エルリアとキーニアスが驚く中、タキニアスはその手を振りほどいて走り出した。
 呆然としていた父が驚いて追いかけようとしたときには既に息子は輪の中へと入っていって―――












「サレディっ……!!」












 殺意に満ちた沈黙が揺れる。
 すべての緊迫した視線が、その声の主に集まった。












 “闇の微笑”―――サレディ=ヴィスタはその少年を驚くことなく見下ろす。









 欠けた月を背に、微笑を、称えて。















「タキニアスっ……!」



 輪から躍り出た息子を追ってきた父キーニアスはその名を呼んだ。
 そして、上の茶の長髪を揺らす魔族を見上げる。

 その微笑を見て、思わず背筋が凍る。









「タキニアス」

「サレディ! ……俺は……」



 輪から出た銀髪の少年は、頼りなくその茶の長髪の魔族の下へと駆け寄っていく。



 魔族サレディ=ヴィスタはその少年を愛おしむ様に見つめた。






「お、れ……は……!」



 言葉にならず、ただ涙が溢れる。

 他二人の魔族も、ただその少年に興味深い視線を注ぐ。









 輪の中、その様を一際ぎらつく目で見ている、ある竜族の男。


















「タキニアス……貴方は、本当に」






 そう、まるで心から愛しく思うかのように言うサレディは、そのまま宙に浮いていた身体の高度を徐々に下げていく。

 タキニアスが見つめる中、サレディは彼の目の前に降り立った。






「サレディ……俺」






 タキニアスが、思わず手を伸ばした瞬間。















 どんっ……!



 輪の中から、突如放たれた青の光―――









































 いつの間にか月光は遮られ、代わりに薄紫の雲が立ち込める。

 ぽつ、ぽつりと雨が降り出した。



 雨が勢いを増すのはほぼ一瞬だった。
 だが誰も、その頬や肩、身体全体を叩く雨粒を気には留めない。












「……ダルファ……!」









 キーニアスは愕然とその青の光が放たれた場所を見る。

 輪のやや人の影にいたその人物は、金の髪の竜族の男。



 だがその男も、今はただ怯えたような、焦点の合わない目で目の前の光景をただ見つめる。
 誰よりも忠義心に溢れ、そして情熱の余り理性を忘れる男。






「あ……ああ……!!」






 声にならない叫びを上げ、がくりと膝を折る。
 周りに居た竜やエルフも、少し距離を置いてその弱々しい様を呆然と見る。















 “闇の微笑”は、倒れ行く銀髪の少年の身体を抱きとめた。






 腹部と肺の間辺りに小さくも無い穴を開け、そこから意外に少なく―――それでも次々と血を流している。
 だが少年は、まだ生きていた。






「…………」






 サレディはその腕の中の少年を見下ろした。
 少年―――タキニアスは虚ろな目で空を見て、ただその身体を腕に預けていた。

 少年の身体から、熱という名の生気が身体を濡らす雨粒と共に流れ落ちていく。
 生命の色濃い液体―――真紅が雨よりも先に血溜りを作り上げる。
 荒い息はやがて掠れた様な音で彼の喉や口を行き来するばかり。






 わかっていた。
 この少年は自分の元に残ることを選ぶだろうと。



 そうするように、今までしっかりと自分という存在を彼の精神に刷り込んできた。






 哀れな竜の子。






 闇に魅入られた、竜の皇子。


















「……皆殺しに、して差し上げろ」












 冷たい、感情の無い、そして大きくも無いが通る声。












「……了解」

「行くぜ」


















 呆然とする竜族の長。
 怒りか悲しみか、ただその激しい感情に肩を唇を拳を震わせるエルフの少女。



 統べる者の指示もないまま、ただ魔族の攻撃に抵抗しばらばらに戦いだす竜とエルフの混合軍。
 竜の放つ息吹(ブレス)がエルフの片腕をもぎ、魔族に避けられたエルフの光刃が向かう先は竜の背。

 敵は2体。

 だが竜もエルフも、成す統べなくその2体の元に力なく体を横たわらせ雨粒に冷えていく。






 黒髪の魔族が無数の光球を雨のように彼らに放つ。
 赤髪の魔族がそのぎらつく刃を彼らの血で染め上げる。





















 竜族の長と、エルフの少女はいつの間にか姿を消していた。
 それは彼らの意志か、冷静に手引きした者のお陰か。

 魔族二人は敢えてそれを追わなかった。